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散歩で整うのを諦める 2022年3月20日週次投稿

今週の週初めは火曜日、天気のせいか頭の重さを感じつつの週次投稿でございます。
今週は、noteをはじめるときにとりあえずの目標にしていた散歩で整う方法を考えた顛末みたいなものを書いてみます。



では早速、散歩で整うって何だよ、というところから。

それは散歩をある程度むきになってやっていると偶に起こる体感が、昨こん人気らしいサウナのその要因にもなっている整うというものに似ているのではないか、という連想からヒントを得たものです。

まずは文脈共有としてサウナで整う、についての文章を引用してみます。
整うを知っている方は引用箇所は適当に読み飛ばしてください。)

そもそも「ととのう」とはどういう状態をさすのでしょうか。…サウナーや東京都浴場組合公認の銭湯ライター、編集部スタッフ等に語ってもらいました。

・血流が体全体をめぐるのを脳でも感じて視界が揺れ始めて多幸感に襲われる状態
・体がふわふわと少し浮かんでいるように軽くなり、どこか飛んでいけそうな感覚。まるで一皮むけたような、生まれ変わったかのような感覚。感覚が研ぎ澄まされ、聴覚もクリアになり、ととのっているときは水の音がすごくきれいに聞こえる。どこかにトリップしたかのような感覚。恍惚感。
・気分スッキリ、雑念消滅、悩み迷いのループが終わる、リセット、頭が真っ白、涅槃
・冷えた体の外側と、内部の温かさが渾然一体、汗がすっと引く感じ。気持ちいい
・体が一気に軽くなり、皮膚がなくなった気分。同時に心臓の鼓動を強く感じる
・聴覚に変化。すべての音が等価で聞こえるようになる
・体が内側から温かくなり、体がリラックスする。脳はクリアで体は軽い
・血管が開き、全身の血流が良くなる。脳内に快楽物質が出ている感じ

一般的にサウナで「ととのう」には、「サウナ(温)→水風呂(冷)→外気浴(休憩)」の温冷交代浴の3ステップを最低3セット行うことが重要だとされています。このように休憩をはさみながら体を温めたり、冷やしたりを繰り返すことで「ととのう」ことができるというのです。
東京銭湯『(51) サウナ浴で「ととのう」は医学的に体によいものか?』より適宜抜粋
https://www.1010.or.jp/mag-column-51/

なるほどなるほど。
(この記事いいですね。ととのうにあまり馴染みのなかった筆者の方のやってみた的な実践とその背景情報が意識的にドライに書かれている印象です。)

で、散歩でも偶に似たようなことが起こります。
上の引用で書かれるような整っている状態の表現に少しおおげささを感じつつも、意識のクリア感、身体の表面が曖昧になる感じ、多幸感、などは散歩をかれこれ10数年くらい断続的に続ける中でいつもではないにせよ体感していたことでした。

というかその体感は、近年のサウナブームで見聞きすることが多くなった整うなる言葉の意味に輪郭付けられたところがあるかもしれません。

そこから、
あっ、あれは散歩で整っているんだな、と思い至ったわけです。

ではサウナで整う方法が静的に確立されるように、散歩で整う方法もある程度整理され得るんじゃないの、ということを思いつきました。
(それはnoteをはじめるときに散歩のことを書こうと思ったスタート地点でもあります。)

いつもではないにせよ、noteをはじめた後からの散歩では、このアイディアのことが頭の片隅にはありました。



さて、ここで一旦話を迂回させないといけません。すいません。
散歩で整うの話をするために、その地ならしを試みておきましょう。

散歩をしていて印象的なことのひとつに、特定の場所や道のりにそれとは関わりのない印象が固着する、というものがあります。(定着でなく固着です。)

散歩のプロセスでは、様々な印象が、その場所や道のりとして、またそれらの関わりで想起される場合と、そうではなく、聴いていた音楽や録音だったり、その日たまたま考えていたことや思い出が想起されている場合があります。(場所や道のりに全く関わりない後者の印象は考えられない、というのはある意味あたっていて、それも面白い話ではありますが、一旦無視させてください。)

今日はどこを歩こうと思って家を出る。
いつもの散歩コースではなくて、馴染みのない道を通ってみようと大体の方向に見当をつけて、折角だからと普段それほど聴かないアーティストの曲を聴きはじめる。

なるほど、こういう路地があるのかとアドリブ的に道の分岐を選び、陽で明るくなった道と建物のつくる薄暗がりを行き来する。iPhoneに入れておいたものの聴いてなかった曲が案外気分にあっていて気持ちいい。
散歩の醍醐味ですね。

それから期間をあけて、またこの前の道を通ってみようと思いつく。
家を出てしばらく歩いて、普段は歩かないあたりの道に差し掛かる。その道に入っていって角を曲がると、ふと、以前にこの辺りでかかっていた曲が思い出される。

そんな具合に、散歩ではある道のりや場所に、それ自体とは関わりない印象が固着するということがよく起こります。

何故こういったことが起こるのか、ということはいくつかの意味で考えられるでしょうが、もちろん正確なところはよくわかりません。
それは知らない道を歩いている私の臆病さを表現しているようにも思えますが、それが全てではないでしょう。

とにかくここで伝えたいのは、
人はよく知らないところを散歩していると、その知らないところを散歩しているという意味そのものと釣り合いをとるように、ありあわせの、なけなしの印象であっても関連付け=タグ付けがなされる、ということです。

(脱線1:こういったある散歩のひとつの場面での偶然の出会いを表現するようなタグは、その道の印象の匿名性に由来するかもしれない、とも思います。印象的な道であれば、それ自体でタグ付けされるに足りるでしょうから。)

(脱線2:歩いていて、そこにタグがある、ということ自体がタグの内容と異なるレベルでメタ的に認識されて習慣を形成する契機になるかもしれません。そのことは別の機会に習慣のことを書くときにふれようかと思います。)

疲れてきました。。
適当に次のまとまりで終わらせます。



ということで仕上げ。

以上を踏まえて、散歩で整うの条件として私にとって決定的ものは何か。

それは疲労です。

あくまで条件のひとつであって、他にも考えられるものはありますが、疲労はそれに欠かすことができない条件だと考えています。

疲労によって上で書いたような無意識的なタグに関わる機能自体が減退して、それがいつも通りに機能しない体自体を感覚する。
それは、身体の表面が曖昧になる感じを含め、散歩で整う状態にかなり影響を及ぼしているのではないか。

では、何故他にも考えられる条件はあるのに殊更に疲労のことだけをとりあげて他の条件をキチンと考えないのか。

そこには他の可能性を考えてもそれが確定できないかもしれない、という弱気さももちろんあるわけですが、
一番の理由はこの動かしようがないと思われる疲労という条件が、歩く距離と時間にもろに影響をうける要素だからです。

日常的な趣味の散歩で体を疲労させ続けるためには、長距離を歩くことへの慣れや筋力の少しずつの向上も含めて、どんどんどんどん歩く距離を伸ばしていかなくてはならなくなり、それに伴ってかかる時間も増えていってしまう。

それは一般的な生活者としての私を突き崩していくことになるでしょう。
家族との時間を気にしないで、仕事がはじまる時間などの客観的な制限を無視して散歩をすることはできない、という訳です。

残念さはありますが、まあ仕方ない。
同時に、制限の中での散歩の楽しみのことをもっと考えてみようと、改めて感じた次第です。
(それは「書くことで見えるものは変えられるか」の記事で考えていることでもありますし、習慣というものをもっと考えてみるという方途も見えてきました。)
タイトルではいささか雑に諦めるという言葉をつかっているわけですが、散歩をより楽しんでいくことは諦めていないのです。

あと、美学的な崇高についてもこの内容と関わりがありそうな気がしていますが、それは気が向いたら記事にしてみようと思います。疲労と崇高。

こんなこと書いておいて何ですが、疲労なんて関わりなく散歩でバキバキに整っています、という方がいたら是非そのやり方がきいてみたいです。笑

ではでは

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。