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蜘蛛の糸、心とブランク 2022年10月2日週次投稿

週のはじめの記述のストレッチ、週次投稿です。
今回は頭の中の煙突掃除です。



この前散歩しているときに考えていたことが何となく頭の中でカタチぶってきたので、一旦メモして煙突掃除をしてみる。

その部分は以前にnoteでつぶやいたことで、

女郎蜘蛛の糸、中心から縦に伸びる糸は土台で丈夫だけど、横に張ってある糸はネトっとしてすぐに切れる。切れるとホイきたと蜘蛛がそこに向かってきたりする。

横糸は蜘蛛にとっての感覚器官で、では縦糸は。この木の枝とあの木の枝の間、隣の草の茎に、壁の隅と天井に、土台では覚束ない。
9月16日のつぶやき

このつぶやきを書く前には、散歩のときにたまたま目にした蜘蛛の巣からネトっとした横糸のこと、それが切れるとすぐにそこへ向かってくる蜘蛛のことを思い出して、横糸が感覚器官になっているのか、ということを面白がっていたけど、書いている最中にむしろ丈夫な縦糸のことの方が気になってきた。

横糸が感覚器官だとすれば、縦糸は蜘蛛にとって感覚の前提であると同時に限界でもある。
自分の興味が横糸から縦糸にスライドしたのは、この前提であると同時に限界でもあるということが、近ごろよく考えている習慣的なものに近く感じたからかもしれない。
日々の習慣の散歩を通じてまとまりなく色々なことをnoteに書きなぐって、継続して興味がつづいている散歩においての習慣的なもののこと。(習慣と習慣的なものを使い分けた方がいいと常づね思っているけどいい加減にしてしまっている。)

散歩で、はじめは感覚そのものみたいに思えたのが反復を通じて退屈にも感じるようになる向きのある辿り道は、散歩の刺激の減退を起こし、散歩全体のタイムスケールの限定をして、他のことを考えられるようにさせるようなブランクを与え、そのブランクがたとえば不意に道を曲がることやその時々の考え事の前提になる。

向きのある辿り道という回りくどい書き方をせざるを得なかったのは、歩いている向きによって道は習慣的に働くかどうかがまちまちで、路面が同じでも逆から歩けば違う道として感覚されるからで、このまちまちは同じ路面が双方向から習慣的になり、更にそれがおなじ路面だという感覚が得られれば場所の感じにつながるかもしれない。

習慣以前にも道の感覚はあるものの、習慣がなければ曲がり道の眺めは得られない、というのは極端な言い方だろうか。縦糸を張り巡らせてようやく曲がり角が立ち上がることを心と呼びたくなっていた。
習慣的なものの一つの帰結としてのブランクと心の関わりについて、というのは書いているうちに思いついたことで、それがまた散歩のブランクに充填される。



こういうふうに書きたいと思ってメモをしているわけではないのにとも思う。散歩をしているときは風通しがいいと思っていたことをnoteに書いてみようとすると窮屈に感じて、でもまあ散歩は大体毎日やっているけど、書くのは毎日やってないものな、とも思う。
書くのが散歩に追いつくというか、散歩みたいになることはないかもと思うと少し寂しい。



小三治の芝浜の冒頭の払暁のくだりが聴きたくなった。
これも何となく上で書いたことと自分の中で繋がる感じがあるけど、どう関わるかまだわからない。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。