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理性の運用の課題 2022年2月6日週ブレスト

記事を書くための記事として、週に一回のペースで心に残ったもの、未消化のものを書き出していく習慣をつくってみたい。記事にできるか難しそうに感じていること、そもそも記事にしようとも思ってなさそうなことを、つらつら。

週次の習慣なんて、この怠惰な自分に作れるだろうか。とても心許ない。(頭がふと、習慣とは何か、どうすれば構築可能か、という方に流れていきそうだった。言語危ない。そんなの知らん。)
そもそも書き出しで週に一回のペースでと書いたけど、本当は週に一回くらいのペースでと書きたかったくらいだ。

さて、余計なことを考えずにさっさと書き出す。

いまは会社の同僚との読書会で読むことになった九鬼周造『偶然性の問題』をパラパラ。
これを読むことになった経緯は、同読書会でドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』の第4章 共通概念の項を読んで、そこで提示されている実践の方法(スピノザが考えている理性)は魅力的には思えるものの、それを実際の運用フェーズーつまり自分の生活ーに落とし込もうとすると、どうも無理があると感じたことがキッカケになった。

この項で書かれている実践の方法をざっっっっくり書くと、自分に向いている、自分をつくっている諸々のものごとそれ自体を理解して、それを軸にしてそれに違わないように生きていくんだよ、それが自分を拡張することに繋がる、ということである。
それ自体は割と一般的な理性の話で、では自分に向いているとか自分をつくっている諸々って何よ、ってところの中身に共通概念というスピノザ色満載の道具立てをしてあるのが見どころ。
ただ、道具立てがスピノザ全開で自分にとって納得感があっても、その運用は上で書いたようにめちゃ素朴である。自分に向いている、自分を構成しているものごとを理解すればするほど、生き方が洗練されていくのはわかる。けど、それでもって出会い自体をコントロールするという運用フェーズの次元はどうするんだい、ということ。

これについてはスピノザが生きていた時代や、彼が単身者だったこと、という諸々の条件がその運用を可能にしていたんじゃないかという気がする。スピノザが結婚していたり、いまの情報化社会(これ死語?)にいきていたら、きっとこの運用フェーズのことを考えざるを得なかったんじゃないかな、と。(そのことはエチカのここに書いてある、という情報があれば是非コメントをお願いします。)

で、いまの時代で例えばそういった出会いをコントロールするということに積極的に取り組んでいるものでパッと思いつくのがミニマリズム。ミニマリズムは出会いの局面を限定していく実践で、理性の運用の現実的な落としどころである。ソリューション!!
でも、私には奥さんや子どもだっているし、酒を飲んでダラダラしたい。YoutubeやTwitterだってどんどん見ちゃう。奥さんがもう少し酒を飲みたいといえば読みたい本があっても酒を飲むし、本を読んでいるとき子どもが話しかけてきたら、何〜?とできるだけすぐに応えたい(理性の運用は自身の幼児性と対面せざるを得ない。)

そんな具合に、ミニマリズム的な生活は難しい。その中で削ぎ落としてしまいそうなものの中に、自分にとっての端的な愛がある。でもそれはミニマリズム的な生活スタイルの否定を意味しない。単におれには難しい。こんまりのYouTubeでもみてみようか。

そんなこんなで、それでもスピノザ的な理性の運用は自分の生活においてありうるのか。
それはある程度偶然性の中で生きるということを受け入れるということであるといえるのではないか。
じゃあ偶然性だろ、ってことで九鬼周造を読むことになった。キチンとしている。
キチンとしていることは、そうでない自分を許してくれるようなところがある。ある種の甘えかも。

スピノザ的な理性と偶然性の両立の具体的な局面については、別の記事を書く機会としてあたためることにする。
これはそのまま私の生活の場面、出来事を目の当たりにしている私そのものであり、それを書くのは結構センシティブである。でも、インターネットとの関わりについては書けるかなとは思う。それも不思議なことかもしれない。書いてみないとわからない。

そうだ、『偶然性の問題』のエピグラフには偶然性が実存にとって大変な問題だなんだかんだと書いてあったので選択はそんなに間違ってなかったのかなと思う。ただ単純な勉強がはじまる。九鬼先生、よろしくお願いします。

これでとりあえず今週の週1投稿が達成された。
書いたのは2、3週間前くらいに考えたことだ。
前途多難。

そうだ、今回のヘッダ画像はqnimaruさんの作品とのこと。ありがとうございます。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。