見出し画像

正しい夜明け/樹海の車窓から-8 #崖っぷちロックバンドHAUSNAILS

「俺の第二形態より目立ってんの腹立つ!!! やり直し!!!」
「は? やり直しって何!? 俺吹っ飛ばされたのに必死で帰って来たんよ!?」

へろへろの触手でギリギリ空中でのバランスを保っているキヨスミが、右手の人差し指を突き立てて飼い犬を犬小屋へ追いやるような素振りを見せる。すっかり悪役令嬢の趣きが板についてきたキヨスミに反論する巨大な青いオウム……もとい、フッちゃんは、その夥しい数の羽毛に包まれた片翼五メートルはくだらない翼の羽ばたきによる風圧により締め切りお化けを木っ端微塵に吹き飛ばした後とは思えない程、いつも通りの調子である。「飛んで戻ってくる間中ずっと脳内BGMがフラッドの『Fryer‘s Waltz』だったわ」などとギタリストらしい不平をブツブツと並べ、「なぁ!?」とおれに謎同意を求めてきたかと思いきや、おれが回答に迷っている間にそのデカい身体がぬるっとふた回りほど小さくなった。アハ体験である。そもそもテメェ、飛べない鳥やないやないか。
「オッ等身大!」縮んだフッちゃんの様子を見て九野ちゃんが言う。嫌やな、百七七センチのオウム。

何故かオウムの姿に変身し、巨大化して戻って来たギタリストによって謎クリーチャーの魔手から救われたおれ達。しかし、安堵も束の間オイシイところをそっくり持っていかれて立腹気味のキヨスミが、突如謎のフレーズを囁いた。

「あっヤバイ増えそう」

何やねん、何がやねん。わかめちゃんか。

と、ツッコんでやろうかと息巻いたその時、おれの視線の先のキヨスミの後頭部から、何かがにゅっと、生えるように飛び出した。


一瞬触手がまた増えたのかと思ったが、今宙に浮いたおれ達の平衡を支えているそれは先っちょが尖っている。一方、たった今ヤツの頭上に伸びている“何か”の形状は、丸い。ヤツの肌の色と揃いの青色で柔らかそうな曲線を描いたそれは、ゆっくりと形を変えていき、そして最終的に、ヤツの顔面と同じフォルムに整った。

キヨスミの頭上に生えてきたキヨスミは、その危うい輪郭をした頭蓋からにゅるにゅると育ち、そっくりそのままキヨスミのクローンを3Dプリンターででも作成したかのようなフォルムになった後、分化するように飛び出して天高く飛んで行った。まるで質量のない風船のような挙動をする、キヨスミの分身(全裸)(デリケートなゾーンはどうやらデフォルメされているようだ)。そいつを生み出している間中、本体は便秘なのか、はたまた今ここで出しちゃいけないものを出しちゃいけないところから出しちゃいそうなのを堪えているのかといった素振りで眉間にシワを寄せ背中を丸めていた。胸に抱かれた九野ちゃん(犬)が今にも腕と薄い胸板に押し潰されてしまいそうで気の毒である。

おれは、その様子をなす術もなく凝視しながら、理科の実験で使ったプラナリアを思い出していた。素っ頓狂で罪のない間抜けな表情をした顔のように見える部分を無残に切り刻まれ、それでも尚同じ顔を切り刻まれた分だけ増殖させるアイツだ。その姿が幼気な中学生だったおれにとってはなかなかクレイジーに思えて、実はちょっと苦手だった。
今思えば、あの人畜無害なゆるキャラ的キュートさを湛えながらも背筋を這い上がるようなじわじわとした薄気持ち悪さを喚起する性質を持っているプラナリアへの名状しがたい感情は、得体の知れない掴みどころのなさとおれよりも幾段も優れた音楽的才能を持っているキヨスミへ、一番最初に抱いた感情に近いものがあるかもしれない。


……なんておセンチになっている場合ではなかった。目の前でバンドメンバーが分裂・分化して増えた。そんなの、どう考えても異常事態じゃないか。今度は一体何がおれ達の身に起こっていると言うのだ???


困惑に包まれるおれ達を尻目にキヨスミは大きく息をつき、分身が飛び出していった後頭部を擦る。宇宙人は無性生殖やなんて聞いた事ないぞ?
しかし当該生物はおれの少々荒っぽいが過ぎたツッコミにこちらを一瞥し、え? と大した同様のそぶりも見せずに小首を傾げた。「別に俺普段から増殖しないよ? 殆ど地球上の生物だし普通に有性生殖だし」

まさか生きてる間に「普通に有性生殖」なんてトンチキな言い回しを耳にするとは思わなかった。

「寧ろ今一番この世界で困惑してるのは俺だと思う」と謎に自信満々で言い放つキヨスミに、抱きかかえられた九野ちゃんが言う。「スライムだからじゃない?」
スライム増殖するか!? と考えたところで己の中に、最近の二次元作品でのスタンダード萌えキャラの一種であるらしい“スライム娘”とやらのキャラ造形への造詣が致命的に不足している事に思い至り、口をつぐむ。もしかしたら、イマドキのハードコアHENTAIコミュニティでは増殖スライム女子萌えがポピュラリティを獲得しているのかもしれない。
そんなおれの悶々をよそに、フッちゃんがあっけらかんと至極真っ当なツッコミを繰り出す。
「そうなの? それどっちかってーとアメーバじゃね?」
「アメーバ娘だ!」
「何それめっちゃブログ書きそ~!!!」
オウムと言うよりかは南国のヒヒみたいな声でフッちゃんが笑い、小型犬そのものと言った感じの声で九野ちゃんも笑う。その能天気さ、心底尊敬するわ。

と、キヨスミが、ケラケラ楽しそうな九野ちゃんのリンゴ二個分程度の小さな身体を何故かおれに手渡してきた。見ると、ヤツはどことなくさっきまでよりもより青い顔をしているような気がする。いや、ただでさえ青いのだから何とも言えないが、少なくともおれの目には随分と蒼白に見えたので、思わずおっかなびっくり白のポメラニアンを受け取って懐に抱え込んでしまった。不安そうに見上げてくるポメ。ポメの自重から解き放たれたキヨスミは弾かれたように背中をのけぞらせ、小さく呻き声を上げた。「う、ぁ……!」

その後、この日の話を時々メンバーで交わす事がある度にキヨスミは「あの能力が今でもあれば、ひとりで3P触手プレイぐらい出来んのに!」と悔しそうに歯噛みするわけだが、正直バンドマンならひとりでオーケストラやれるのにぐらい言えや、とおれは思った。まったく心底ドスケベ大魔神なわけだが、その増殖の仕方からして存分に扇情的だったので、多分こいつそう言う生き物なんだと思う。

キヨスミは背中を反らして呻いたかと思うと、今度は触手が出ているワンピースのざっくり開いた切れ込みの間から分身を生み出した。聴き慣れたCMソングを二本分程脳内で再生している間ぐらいの時間を使ってそいつはぬるり、と本体から分化し、その間本体は身をよじらせながら慎ましやかな声であ、あ、あ、と息を吐き――ラマーズ法か――まだ湿った牛の子供のような青いキヨスミ(の分身)が、キヨスミ(の本体)の腰を伝って尻、太ももを滑り、はるばる地べたに落ちていった。べしょ、と泥人形を投げた時のような音が聞こえておれはそっちを意地でも見ないぞと心に誓う。
その後キヨスミは複製を五体程生み出し、地上又は空中に放出する毎にガクン、と全身を弛緩させて膝に手をつき、肩で息をして手の甲で唾液で濡れた口元を拭うなどした。おれはなんとかヤツが地上に落っこちてしまわないように、足元に意識を集中させて仮装ホバーボード(と言う名称で良いのかこの技)を必死にキープし続けるほかなす術がない。

アメーバ娘の増殖シーンと言うマニア垂涎のフェティシズム映像を言葉を失って見守ってしまった我々をよそに、とうのアメーバ娘本人は筋トレでもしてたんかワレと言った趣きで「あ゛ー……」と色気のいの字もない声を出し、「めっちゃ疲れた……はやく触手しまいたい」とやたらダンディに前髪を掻き上げる。一体今のは何だったのだとおれは呆気に取られるほかないが、「見ちゃいけないもの見ちゃった」と蚊の鳴くような声を出した九野ちゃんは早くキヨスミから目を逸らした方が良いと判断したのか空中に飛び出していったヤツの分身を人知れず確認し、そしてその不気味な挙動に気がついて大声を上げた。
「ねえ!!! キヨちゃんから出てきたやつ!!! なんか震えてる!!!」

胸に抱えた小型犬のクソデカボイスに鼓膜が半狂乱になった。しかしその声に思わず九野ちゃんの視線の先を見ると、さっきキヨスミが生み出したその分身が、細かく震えているのがわかった。視力両目共に〇・三、眼鏡をかけて一・〇のおれでも目視でわかる。そいつは丁度、パチンコ屋の店先によく立ってる、空気を吹き込むとバタバタ動くヒト型のバルーンみたいなオブジェのようななんとも言えない不気味な動き方をしていたのだった。
おれと一緒にそいつを見上げていたフッちゃんとキヨスミが、今度は地面に落ちていったキヨスミ(の分身)に視線を向ける。つられておれも恐る恐るそっちを見た、が、そこには幸い(?)無残に潰れた投身自殺体的なサムシングは存在せず、その代わりに空中に浮かんだソイツと同じく不気味な震え方をしながら直立しているキヨスミ(の分身)三体の姿があった。

逆に怖いわ。

「なあ……あれ、大丈夫か……?」持ち前の明るさが影を潜めたフッちゃんが、珍しい程のウィスパーヴォイスで言う。キヨスミも「……無精卵みたいなもんだからダイジョブじゃねえの」といつもの調子で応じるが、その声は硬質な響きを持っていて己に生じた生態の変化への戸惑いが隠しきれない程に伝わって来た。
そして、スーパーリーダーギタリストの不安は、見事に的中する。

地べたに佇む三体のキヨスミと空中をクラゲのように浮遊する四体のキヨスミが、一斉にこちらを睨みつける。母体たる本体よりも幾分か生気のないその目がおれ達四人組を捕えたかと思うと、あろうことか一斉にこっちに向かって空を切り飛んで来たではないか!

足元を見ると電柱をヤモリのように這い上がってくるヤツも三体いる。その全てが間違いなくこっちに向かってきており、思わずおれは足元の仮装ホバーボードのエンジンをかけてしまったしキヨスミの触手もものすごい勢いで電線を這い始めた。

「なんでキヨちゃん追いかけてくんの~!?」尤もな事を九野ちゃんが、おれの腕の中で叫ぶ。
「知らねェよだって俺じゃねえもんあいつら!!!!!! キモ!!!!!!!」キヨスミの言う事も尤もである。まばたきする間に追ってくるキヨスミの分身達のうち四体は、狼狽えまくる母体の意思など知らぬ素振りで頭上を旋回し、少し振り返ると残りの三体が電線を元気なナマケモノスタイルで迫ってくる。追いかけられればどうしても逃げてしまうのが狩猟生物のサガってもんで、フッちゃんの「本多劇場見えてきたぞ本多劇場!!!」との叫び声を受けておれ達はその開け放たれた入り口に吸い込まれるようにして地上に飛び降り、背後に複数のアメーバ娘の気配を感じながら階段を三段飛ばしで駆け上り、ヴィレヴァンの扉に飛び込んで思い切り閉めようとした。

が、そこでフッちゃんがおれ達を両手で制し、こちらに背中を向けて開け放たれた扉の前に立つ。古い映画のサムライじみた表情でおれ達に向かって一度頷くと、店内に飛び込んで来ようとするキヨスミの分身達に向かって両手をかざし、カンマ数秒のうちに何らかの紋を両手で切りゲインマックスの大声で叫んだ。


「オン・ヒラヒラ・コンピラコンテイ・ソワカ!!!」

いや何語?????????


おれの困惑をよそにフッちゃんの大声を喰らったキヨスミの分身達は、おれ達の目の前で一瞬にして一体残らず粉々に砕け、スプーンでクラッシュされたブルーハワイ味の寒天のようになって地べたに無残に散らばったのだった。

両手をゆっくりと、中空から身体の横に下ろすフッちゃん。わざわざこちらへ振り向いてガッツポーズを取ると、「ジイちゃん直伝の天狗真言、初挑戦大成功キメてやったぜ!」とニヒルに口角を上げてみせる。

圧倒的な倦怠感に包まれるヴィレヴァン入口ロビーで、心優しい九野ちゃんだけが締め切りお化け同様木っ端微塵にされたキヨスミの分身達を案じていた。
「ああっ……キヨちゃん粉々になっちゃった……」
「いや俺じゃないけどねあれ」


******************

赤いウィンドウペンチェックが四角く切り取った群青色の空の真下に、ギリギリ四人は座れなさそうな古い木製のベンチがある。左の壁には青い自販機が佇んでいて、灰皿がふたつと青いゴミ箱がふたつ、それぞれ所在無げに突っ立っていた。天井の安蛍光灯は時々、思い出したようにチカチカと明滅する。
おれ達は見慣れたそこに各々座り、とりあえず呼吸を整えたり、一服火を着けてみたりなどして過ごした。まだ、ここから出られそうな気配はない。

ベンチの上にそっと下ろした九野ちゃんが、「そういやずっとここでインストアとかすんの夢だったねえ」と長閑に言った。おれは人数分の飲み物の要望を取り、自販機で買ったそれを手渡していく。なんかちょっとニンゲンっぽくなってきた九野ちゃんがくまのプーさんのようなスタイルでベンチにぺちょ、と腰かけ、両手でペプシを受け取って器用に蓋を開けた。
同じくちょっとしまじろうの友達の緑色のインコみたいな趣きになってきたフッちゃんが、ボスのブラックのボトル缶を手に言う。「まず最初にシェルターいっぱいに出来ねえと駄目だな!」

ヴィレヴァン下北沢店に一度でも来た事があるひとなら、入り口は何処かと聞かれればきっと、夥しい数のガシャポンマシンが並んだスーパーオオゼキ側をイメージするのではないかと思う。今おれ達がいるのは、そちら側ではない方の入り口だ。外側から見ると言わずと知れた下北沢のランドマーク、本多劇場の看板が圧倒的な存在感を放っているその入り口の階段を一番上まで上らずに、ひとつ目の踊り場でちょっと曲がった扉の向こうにある。そこには普段喫煙所として使用されている空間が、混沌とした店内の様相に相反するように、ぽっかりと空洞のように存在している。ここでは、稀にバンドやアイドルのリリースイベントとして、インストアライブやトークショー、握手会などが行われる事があった。おれも以前キヨスミに唆されてKEYTALKのリリース記念握手会に参加した事がある。店内に溢れかえるバンギャルもどきの中に浮かぶ野郎約二名の客の姿は、流石に若干悪目立ちした。

「主催イベントとかした~い」「あっわかる~主催イベやりたい!」ワンマンではまだ下北沢シェルターすらもいっぱいに出来ないペーペーのベースボーカルとドラマーが、無邪気に夢を語る。目の前にしゃがみ込んでリプトンミルクティの缶を開け、何処から取り出したのかキャメルをくわえたキヨスミのぐちゃぐちゃになったフリルのスカートを見かねたおれは、せっかく座ったベンチから立ち上がりヤツにポジションを譲った。九野ちゃんの前で地べたに体育座りしたフッちゃんが、ボトルの口に上クチバシだけを器用に突っ込んでブラックコーヒーをぐいぐいと煽る。
おれは黄ばんだタイルに胡坐をかいてCCレモンを地べたに置き、硬直した背骨をほぐそうと思い切り背中を反らせた。
「んで最終的にアレやな、ゼップ~?」と降ると、ノリの良い陽気な仲間たちは声を揃えて各々拳を掲げ、元気にレスポンスを返す。
「「「「トーキョー!!!!!!」」」」


バンドマンなら誰もが夢を見る。よりデカいハコで、より多くのひとに。自分達の作った歌を、音を、届けたいと夢を見る。当然だがこの時のおれ達はまだ、ゼップ東京が近いうちに閉館してその跡地に一万人規模の巨大スタジアムが出来るなんて事、塵程も知りもしなかった。
勿論、夏フェスシーズンを迎えてもそれまでお客として毎年行っていたロッキンやフジロックが、HAUSNAILS宛ての出場オファーなど来るはずもなく中止になるだなんてクソ程予想もしなかった。


「これからどうなるんだろねえ、オレ達……」
九野ちゃんが、ピンク色の肉球のついた小さな両足をぱたぱたと動かしながら呟く。そのどことなく他人事のような気の抜けた問いかけに、すぐにフッちゃんが応じた。
「えっ? こっから出られなくなったらって事?」
フッちゃんの切り返しに対し、しかし九野ちゃんは「違くて~!」と反論。
「その……このままライブとか、あんま出来なくなっちゃったら、どうなんだろうなあって。ライブハウスとかも今やばいみたいじゃん? このまま外出自粛とかになって、収束してくれればいいけど、もしもそうならなかったら、次いつライブ出来んだろな、って……」

フッちゃんは青いオウムのくせにおれの左隣で片膝を立てて座り、気だるげに頬杖をついている。黄色いクチバシがどことなく苦々しげに歪んでいるように見えた。

やたら優雅な所作で脚を組んだキヨスミは煙草を灰皿に押し付け、ソーダ味のグミのような唇をミルクティで軽く濡らした。おれと目線が合うと、わざとらしく視線を逸らす。おれはと言うと、いわゆるゲンドウポーズで訳知り顔を作り、ちょっと頷くぐらいしか出来なかった。


雲が動いたのか、赤い縁取りの窓から差し込む月明かりが少し翳る。


「……そういや社長がなんかええ事言いはったなあ、ほれ、あのこないだ観せられた配信ライブで」

思わず口火を切ってしまった。大阪人は沈黙に弱い。見慣れたメンバー――数名はちょっと見慣れない姿をしているが――が普段じゃありえないぐらいお通夜のような空気に包まれている状態は、ちょっと看過出来なかった。世界が誇るお笑いタウン大阪生まれなはずのおれよりもノリのいいフッちゃんが、おれの適当に放ったひと言を拾ってくれる。
「ああ言ってた言ってた! めちゃマブだったじゃん、何つってたっけ?」
右上を見上げて思い出す素振りのフッちゃん。すると、突然キヨスミが片手を挙げて立ち上がり、扉の前の広い空間に移動する。まるで飲み会の余興でも披露する時のように、その場にフランス人形のようにすっくと立ったキヨスミは、唐突にザ・キャットテイルのフロントマンたるジル猫実社長の物真似を始めたのだった。

キヨスミの物真似ははちゃめちゃにハイクオリティだった。日頃から福山雅治やら井上陽水やらの物真似をカラオケで学生時代の友人や母親に要求される事もあるおれとしては悔しくなる程、そっくりそのままジル猫実のステージ上での所作をコピーしたかのような仕上がりだった。

オーディエンス一人ひとりの顔を覗き込むように、少し前のめりの姿勢になったキヨスミは、右手でマイクを持つふりをして、左手を脱力したようにぶらん、と身体の前に投げ出す。詰まった襟から覗く樹脂細工のような首は右側に傾げられ、膝を少しだけ曲げて身体の重心を時々右、左と揺れるように移動させていた。猫背になった肩は右側が少し上がり、うっすら潤んだ瞳はここではない何処かを見ている。
その、川の傍で揺れる柳のような心許ない所作のすべてが完璧にステージ上でのジル猫実のそれを再現していて、あのひとよりもふた回りは背も低く体格も小さい二次元の女のコの姿になってしまっているキヨスミがそれを実演する事によって、パワフルが過ぎて一公演に一台マイクを壊していた過去を持つあのフロントマンが、その一連の言葉を発した時にだけ見せたか弱げな仕草がより一層際立って感じられた。


「大変な世界になってしまった。馬鹿野郎である我々や、それを好いてくれる君はもしかしたら、特にいち早く世界へ災厄が歩み寄る足音を感じ取ってしまっているのかもしれない。

今この瞬間にも、世界のどこかで知らない誰かが命を落とし、我々の愛するライブハウスが存続の危機に晒されている。

それでも、俺には、俺達には、モルヒネを打ってでも、生きる意味が、きっとあると、思っている。残酷かもしれないが、君にもそうあってほしい。

俺達の音楽を、君の、君のモルヒネとして使ってくれ。いつか君のロックンロールも絶対に聴きに行くから。そっちに行くから。それまで、待ってて」

ふりふりの袖から覗く細い指が、見えないオーディエンスに弱々しく差し伸べられる。黒と赤の髪飾りに入り切っていない髪の毛が一筋、ファイバーライトの束のように青白く光りながら唇の端に挟まった。八の字に下がった眉に反して、緩やかな曲線を描いた口角がくっ、と、やたら情け深げに引き上がる。いかにも苦節十五年以上のバンドマン然とした、溶々たる表情だった。

「すげ~! めっちゃ似てる~」九野ちゃんが心底感動したと言わんばかりの様子で両手の肉球を叩き合わせる。フッちゃんも思わず、といった素振りで左右の羽毛を叩き合わせた(その衝撃で舞い散った羽根がめちゃめちゃおれの鼻先を刺激してきてくしゃみ出そうになるしTシャツが毛だらけだ)。超ド級の物真似を披露し終えたキヨスミは、仲間達からの惜しげもない喝采に「そりゃあね、バックアップしてたのをトレースしただけだかんね」とこともなげに応じる。あのライブ映像の社長のMCの部分のみをそのままネットワーク上のクラウドからダウンロードし、自分の身体を介して再生したのだとヤツは説明したが、宇宙サイボーグの身体の仕組みはおれにはさっぱりわからんままだ。
おれは、赤い窓枠の向こうの書き割りのようなネオンを見やって誰にともなく呟いた。
「モルヒネねぇ……」


******************

やかましい音楽ばかり聴いていた。ここ最近。

大好きなポルノグラフィティ、ブルーハーツ、その流れでクロマニヨンズ。キヨスミに薦められてから結構好きになったビレッジマンズストア、ラッコタワー、それと、KEYTALK。
爆音のギターや腹に響くベースを耳から脳味噌に常に直接流し込んでおかないと、余計な事を考え続けてしまいそうだった。

阿呆なおれだって、この世界が今まで通りにはいかなくなるかもしれない気配ぐらい、その時には既に感じ取っていた。人並みに不安だった。日を追うごとに、職場に漂う緊迫感が増していくのがわかった。夜になると金髪ツインテール美少女を脱ぎ捨てた社長が、四十代金髪おじさんの姿でスピーカーからYouTubeの生放送を流し始める。それは決まって都知事の会見の音声で、その淡々とした表情の読み切れない事務的且つ人心掌握に長けた声によって告げられるおれの住む国の現在位置の絶望的な程の不安定さから逃れたくて、イヤホンを挿しひたすらに画面とキーボードに集中した。

別に、今に始まった事ではなかった。おれは今までだって、いつもそうだった。中学生の時、間抜けな超能力をうっかり教室で披露してしまった事で物騒な渾名を付けられ恐怖と奇異の混じった眼差しのもとハブにされたあの頃から、身に降りかかる痛みを、苦悩を、紛らわすためにイヤホンを挿し、本を読んで過ごしていた。そうしている間だけ、おれの周りには透明なバリアが出来上がったように、安心出来た。そのバリアはゼラチン質で出来ていて、教室の喧騒や同級生の怯えたような表情を、ちょっとだけぼやかして見えにくくさせた。
高校に上がる頃になると、じきに自分でも音楽をやるようになった。バンドに入ったのは正直、いつまでいても誰にも拒否されない居場所が欲しかったと言うのが、最初の大きな理由だった。今思えば随分と独り善がりな話だが、今となっては、自分達の音楽が誰かの痛みや苦しみを紛らわせる事が出来るようなものになったら、なんて思う事も増えた。
おれにとっても、音楽はモルヒネのようなものだったのかもしれない。


「おれ達の音楽も、誰かのモルヒネになれたらええな、いつか」


思わず飛び出した言葉を、フッちゃんが「おっ良いこと言うじゃ~ん」と茶化してくる。コイツはいつもそう言うヤツで、それが湿っぽいのやクサいのが苦手なおれへの一番の称賛になる事をわかってやっている。九野ちゃんもニヤニヤと口角を広げて、ポメラニアンと言うよりはクオッカワラビーのような顔になった。照れくさくなって笑ってごまかしながらCCレモンを煽り、思わずむせ返るおれを見るふたりの目は柔らかい優しさを持っていた。


しかし、そんなふたりの優しさに甘えるおれの脳味噌に、冷たく低い小さな声があっさりとヒビを入れる。

「失恋ごときでスランプなっちゃうヤツがエラそーに」


その声を耳にした瞬間おれの身体は一気に熱を孕み、その勢いに弾かれたように立ち上がって声の主たるキヨスミの身体をエルボーでタイルの床に引き倒しその襟首を捻り上げ、気がつけば自分の鼓膜も割れそうなぐらいの大声で思い切り詰っていた。「アホかますなやワレェ!!!」


異常な程に柔らかくしなる身体。


おれは思わず襟首を掴んだ手を放した。


二年前の夏、おれ達の間に生じた“ある事情”を知らないふたりが、不安そうに「どうしたどうした!?」とこっちの様子を伺ってくる気配を感じる。

タイルの上に身体を投げ出したキヨスミが、信じられない程静かな瞳でおれを見返してくる。その目と目が合った瞬間に、おれの意識はあの春に一瞬で引き戻された。

2018年設立、架空のインディーズレコードレーベル「偏光レコード」です。サポート頂けましたら弊社所属アーティストの活動に活用致します。一緒に明日を夢見るミュージシャンの未来をつくりましょう!