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G.R.ウェッジウッド『ティーカップの歴史』

 読書感想文を書くに当たって私は、
 同じ本を少なくとも3回は読み返す。

 なぜわざわざ3回も読むのかと訊かれたなら、
 初読時序盤の印象など、
 私の場合は当てにならないからだ。

(文字数:約2500文字)



Studio120さんと書籍情報

  文学フリマ大阪にて、
  事前に出店者目録にざっくりと目を通し、
  現物も見て気に入ったら買うつもりでいた一冊。

装丁も好み。

  
  『ティーカップの歴史』
    原著   THE HISTORY OF THE TEA-CUP
    原著者  G.R.Wedgwood
    原著発行 1878年
    翻訳   八坂八郎(Studio120)
    2021年5月初版
    A6版 126ページ

  現在紅茶を愛する国として知れ渡っているイギリスに、
  酒でもコーヒーでもない謎の飲み物が、
  庶民にも普及していくその過程で記された、
  『ティーカップの歴史』。

  しかも作者がウェッジウッドって、
  ほぼ確実に陶器工房の関係者じゃないか。
  面白くないわけがないだろう。

  と思って読み始めたけど、
  原著者はメソジスト派の宣教師でした。
  (しかし無関係でもないと思う。)

  

「翻訳もの」というジャンル分け

  本好きの人と話していても、
  「翻訳ものはちょっと……」
  と苦手感を示す人が割といるんだが、

  私は幼少期を、
  天井まで届く本棚だけがある部屋に座らされ、
  この世の全ての事物に、
  まず文章から接してきたもので、

  「翻訳もの」という区分概念が存在しない。
  本国の書籍においてさえも、
  「古典」という感覚がそこまで存在しない。

  とは言え初読時は確かに頭に入りづらい。
  しかしこれは翻訳者の巧拙ではない。
  原著者の常識感覚価値観が、
  現代とは相当な距離感で異なるからだ。

  「ん? 何言ってんだコイツ(怒)」
  とちょいちょい引っかかるのは至極当然。

  そもそもイングランドの人間以外は、
  アイルランドにもカトリック信者にも、
  結構辛辣な言葉吐きまくってるからなこの著者。

  そんな中ビルマ(現在のミャンマー)の漆器は、
  素直に誉めてて微笑ましい。

  ってかミャンマーにも漆器ってあったんだ。
  と自分でも調べてみたけど確かに見事だった。
  これはかなり知れて良い情報だった。



歴史的に割と重要資料

  お茶、という植物と生産地に製造工程、
  カップ、という物質については聖書にまで遡って、
  原材料はどこで取れるか、
  概ねどのような組成になるか、
  釉薬にはどういった材料を使っているか、

  ウェッジウッド社が中核を成す、
  スタッフォードシャーの1800年代の様子に、
  名匠ジョサイア・ウェッジウッドの生涯。
  
  製造工程はまず粘土を成形するところから、
  カップを作る担当者だけでなく、
  粘土を使えるようにする人や、
  ろくろを回す人、

  カップに模様を転写する用紙を作る人に、
  用紙をカップに合わせて切る人、
  製造工程で出来た小さな跡を取り除く人の、
  作業手順まで事細かに紹介してくれている。

  現代感覚から見れば労働者たちに対する、
  日頃の観察眼、
  すなわち愛情に満ちていると思ってもいいな。


心の叫びが炸裂した

  そして本書の白眉は第九章、
  「わずかながらの実践的教訓」
  と章題こそ控えめだがなかなかどうして。

 今日の最も派手で美辞麗句に満ちた広告でも、
 これの上を行くのは無理でしょう!

『ティーカップの歴史』「第二章 茶の栽培」p30

  昔の茶葉の広告について皮肉っぽく語った、
  この文章をそっくりそのまま、
  第九章の貴方の語りに返してやるよ。

(略)偉大な陶工 ーー 神もそうです。神は私たちがみな「誉れに至る器」になることを意図されています。(略)陶工はそれを完璧で良いものにするために最善を尽くします。そして、私たちが自らの人格を主の手に委ねるなら、主はきっと主の誉れのために人格を形作ってくださいます。主の中でそれらは磨き上げられた金のように輝き、王の王のしるしを受けることになります。良品のカップのすべてに製造者の名前と文様が刻印されています。もし私たちの人格が正しくて善いものであれば、一つの短い言葉が私たちの創造者の名前と私たちの人格を完全に言い表すでしょう。それは比類のない言葉、「愛」です!

『ティーカップの歴史』「第九章 わずかながらの実践的教訓」p96

  お見事!

  と思わず読みながらあまりの名調子に、
  拍手喝采を送りそうになったよ。

  この本の冒頭序文あたりからコイツ、
  どこかでこの論説を書き入れたくて展開したくて、
  ウズウズウズウズしまくってたよな。

  ようやく書き記せるところまで来た喜びが、
  噴出しまくってやがる。

  もちろん生まれ育った時代も違えば、
  歴史認識に価値観も違うので、
  その主張の全てに賛同し、
  感化されたわけではないんだが、

  私よりは若いだろうこの兄ちゃんの、
  人となりみたいなもんは掴み取った。

  おかげで再読時以降は、
  目の前で意気揚々と語られているかのように、
  読み進める事が出来たぜ。


本書が書かれた主たる目的

  そもそもメソジスト派の布教活動に、
  お茶とお茶会がどれほど有用であるか。

  にもかかわらず現実の19世紀のお茶会が、
  集金目的の、
  噂話に終始する嘆かわしい状況に、
  成り果ててしまっているか。

  聖書の福音に今こそ立ち返りましょう。
  茶会を有意義なものにしましょう。

  と私より若いだろう兄ちゃんが、
  日本で言えば明治時代に、
  切に訴えてくれていての、
  今現在なわけだな(涙)。

  いや多分ウェッジウッド社の宣伝として、
  読まれちまった要素が大きいとは思うけどね。

  また意図通りに読まれたとしても、
  残念ながらヒトは噂話に儲け話を、
  そう簡単にはやめ切れないものだからね。


  総じて、大変面白かったです。

  本書に触れられたのも、
  翻訳者の八坂八郎さんのおかげです。
  ありがとうございます。


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