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無の力

 はじめましての人も、
 前から知ってる方も、
 ごきげんよう。

 偏光です。

 Pixivで公開してきた小説以外の文章を、
 noteに移して行きます。

(文字数:約1500文字)


 「八面六臂の大活躍」をした、
 と噂されるほどの我が父方先祖であるならば、
 歴史上のどこかに、
 多少なりと痕跡を残していてもおかしくないはずだが、

 何を隠そうこの「大活躍」、
 九割方が村の語りべの「創作」である事が分かっている。

 語りべをしていたのは私の母方の曾祖父。
 つまりひいおじいちゃん。
 おじいちゃんの父親。
 母のおじいちゃん。

 そして彼の語りを聞かされて育ったのが、
 戦後間もなく生まれた村の子供たち。
 私の母や父の世代になる。

 十人近くいた自分の子供たちを、
 次々と病や飢えや戦争で亡くした曾祖父は、
 戦後もなお食糧の乏しい中で、
 たくましく育っていく次世代に対して、

 「こん村は昔っから何も無か貧しい村じゃったぁ」
 とは、
 哀しすぎてよぉ言われへんかったのだ。

 「何も無か小さか村じゃいけん、
  他所からも侮られて、
  皆のおとっさんはいっちゃん厳しか戦場に遣られて、
  土人形のごとバタバタ倒されてしもうたとぞ」
 などという、
 言ったところでどうしようもないあまりに本当すぎる話は、
 どうしても口にする事が出来なかったのだ。

 嘘でも作り物でも構わないから、
 村に伝説が欲しかった。

 自身がまだ幼い頃に聞かされた、
 一風変わった男の話なら、
 当時を知る人ももう生きてはおらんし構わんじゃろと、

 実際には直系の子孫である私の父親一家がいて
 それなりに影響を与えたのだが、
 私としてはこの曾祖父の心境が涙ぐましくてたまらない。

 アーティストやクリエイターに送られる、
 一般的な賛辞として、
 「無から有を作り出せるって素晴らしいですよね」
 といった言い方があるが、
 ここに私は二点ほど補足を加えてみたいと思う。

 まず一点は、
 結構多くの人が気付いている事と思うが、
 「全くの無からは作り出していない」。

 私の曾祖父も、
 どこの講談で聞き覚えたものかは分からないが、
 結局は我が先祖に鬼退治をさせている。

 そしてその鬼は、
 父の実家の裏手にある沼に沈められた事になっており、
 「危ないから近付いちゃならん」という
 子供たちへの教訓まで添えられている。

 そうしたものを、
 「パクリ」と言ってしまうのはたやすいが、
 要するに人はそれまでに取り入れた言葉や文物、
 生まれ育った土地に根差した知識などから、
 創作を試みていくしかない。

 もう一点、
 私もごく最近まで充分には把握し切れていなかった事だが、
 「有が作り出される以前は、
  もちろん無でしかない」。

 そこに何も無いからこそ、
 人は何かを作り出そうとするのである。

 その渇望にエネルギーは底知れず、
 すでに何かを有している者には計り知れない。
 有になった途端「無の力」は弱まるからだ。

 代わりに強まるのは、
 「一度有したものを失うまいとする力」である。

 人類の歴史に文明に、
 技術の進歩といったものは、
 要するにこの二つの力、

   「無の力」と
   「有を失うまいとする力」の

 せめぎ合いでしかない。

 つまり人類は、
 何ら進化などしていない、
 というのが私のごく個人的な感想だが、
 絶望するには当たらない。

 それを引き継いだ我々も、
 進化などしてやる義理は無いと思えば。

 失う、事への耐性あるいは、
 認識の切り替えが必要だ。
 失う、事は必ずしもネガティブではなく、
 自己犠牲や痩せ我慢でもない。

以上
ここまでを読んで下さり有難うございます。

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