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すまんが意味が分からん

今日は何やらずいぶんとしんどいような、
同時に肩の力がだいぶのこと抜けたような気がしている。

もう少し詳しくまとめたいが果たしてまとまるものかどうか。
ネガティブに聞こえる表現もあるかも分からないが、
私個人としては今決してネガティブな感覚ではない。


誰がどんな知識を持っていようが、
誰がどんな経験を積み重ねていようが、
どうだって良い気がしたんだ。

誰かが脳に血肉に残している時点で、
それは良くも悪くも全人類の、
共有資産だ。

どこにどういった立場で存在しているかだけの話で、
私ももちろん全てのヒトが等価。
私が食いたくてたまらない品はどこかの私が食ってるし、
私がおいしく食べた品はどこかの私が食いたがってる。

叱られようが笑われようが侮られようが、
それは私の表面上で起きた話に過ぎない。
同時に共有資産がマイナス側に傾いた事には、
誰からも気付かれていないだけだ。

ならばプラスの側しか頭に入れる必要も無いだろう。


9歳までの時点で私は、
本来の私という人格に存在は、
一度全方面から完全に否定され、
粉々に壊されてしまったと思っている。

その時点から私の身体は、
理由などはっきりとは分からないまま
神仏の御心を多少なりと世に表すための、
器でしかないように思っている。

雑に言ってしまえば知らんでも生きられる事柄を、
やたら知りたがる欲を満たすためだけに生きている。
満たした以上は定期的に吐き出す必要があり、
私の場合はそれが小説になる。

しかしながら何が身に付こうが、
逆にその分何を身に付ける事が出来なかろうが、
私にとってはどうだって良い。

そもそも私が生まれる以前から存在している知識であり、
もはや使われなくなった知識も数多い。
後生大事に拝むものですらない。

あれば誰かしら見るんじゃね?
誰かに何かしらは残んじゃね?
別に私が何書いても構わんし、
無いよりはマシ程度の話だ。


29日朝6時頃の追記:

  私の経験に感覚は全て文章に供せられる。

  美醜は問わない。
  正邪も意識しない。
  ヒトそれぞれに有していて然るべきものだからだ。

  要するに私は10歳以降、
  全てを「ネタ」だと心得ている。

  さればこそ周りで何が起きようとも、
  どんな目に遭わせられようとも、
  私の中心は常にしあわせでいられた。

  ヒトの心は死ぬ。

  身体は無事だとしても、
  心の一部に過ぎないとしても、
  確かに死ぬ場合があり、

  死んだ魂には供養が必要だ。

  容易には理解されない文章こそ喜ばしい。
  私はギリギリのところで踏み留まってもらいたいからだ。

  感情が壊れたままでどうにか、
  ある程度ヒトの姿を整えるように生きているヒトは、
  私くらいで良い。
  他にいるとしてもなるべく少ない事を望む。

  感情が伴い切れた方が人生は美しい。
  一度でも失った者からはそう見える。
  



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