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奥の院に対する清々しい疑問

 おそらく日本国内で最も有名な、
 観光地として存在する墓所ではないだろうか。

 高野山の奥の院は、
 御廟がそれと言われがちだが、
 一の橋から中の橋を経て御廟橋の奥まで、
 参道だけでも2kmの道のりをたどる。

 参道の左右各所の墓を山に向かう細道まで参拝して回れば、
 それなりの時間が掛かるので、
 歴史好きであればあるほど一日では回り切れず侮れない。


 配偶者がまだ子供の時から
 (と言っても彼が認識する「子供」は、
  バイクの免許を取った後18歳頃まで含まれていたが)、
 お気に入りの場所であり、

 当時は彼氏だった配偶者に連れて行かれた時から、
 私もどハマりしている。

 何にそこまで惹かれるかと問われれば、
 存命時の遺恨も怨憎も知ったこっちゃねぇ、
 対立し合い戦いまくり、
 互いの家族を斬り殺しまくった武将どもが、
 軒並み似通った墓を並べて澄ましているところだ。

 意外に思われるかもしれないが、
 法然・親鸞・日蓮の墓所もある。

 そう。高野山は江戸の中期頃までは、
 何も真言宗限定の山ではなかったのだ。

 明治に入ってからの事だが、
 キリスト教徒の墓に碑文を建てた例もある。
 「お大師さまの深い慈悲心によってこの墓所では、
  どのような方も受け入れるのです」
 みたいな説明がその際にはなされたそうだが、

 ここに来る度私には、
 込み上げてくる笑いと共に、
 一つの清々しい疑問が浮かぶんだ。



 この受容性はむしろ、女性じゃないか?


 空海という御仁は誰よりも真っ先に、
 生きながらにして奥の院の御廟に、
 この土地を治める女神のふところに、
 潜り込んで見せただけではないのか?

 私は空海という人物を貶めたいわけではない。
 むしろ大変に物の分かった人だったと、
 畏敬の念を深めている。

 おそらく女神からこの土地を頂けた事だけは、
 少なくとも空海本人の認識では事実だ。

 この高野山という仏教の聖地そのものが、
 僧侶たちの日々の修学にその蓄積が、
 実は全てこの土地の女神に捧げられている

 神道の神々は仏の化身であり、
 神々も解脱を求めているとする、
 一般的に知られた神仏習合とも、
 ちょっと趣きを異にしている。

 なればこそ日本全国津々浦々にまで、
 弘法大師の名は私自身が確認している限り、
 五島列島の中でも西端の離島にまで、
 薄く浅くではあるが広まり尽くした。

 どんな宗派も家柄も受け入れる、
 という発想自体、
 平安時代の後期にはとんでもない、
 当時の世界認識の範疇を超えたものだったに違いない。

 当時は高野山、限定ではあったが、
 後の世代が徐々に見え方を変えてくれる、
 最初の布石は築いてくれたわけだ。

 御廟橋より先は撮影禁止。
 絵にも写真にも文章にも写し取る事は出来ないが、
 明らかに場の空気が変わる。

 「気のせいだ」と片付けてしまうのは実に簡単だが、
 果たして「気のせい」自体が、
 軽んじ切れる性質のものだったろうか。


高野山の旅まとめ

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