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『唱え奉る河内國春乃井学園御詠歌部』第13話

第1話(末尾に全16話分のリンクあり)
(文字数:約9000文字)


13 秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども

 おかわり、なんて感覚はずっと僕には無かったものだから、
「ほい」
 って目の前に山盛りの二杯目が置かれるのを、古和に移り住んで最初の秋は、かなり迷惑みたいに思っていた。
「こんなにいらないよ」
「もうつがれてしもうとんや。食わんにゃ」
 その頃はおじいちゃんとの会話なんて、そのくらいで、それも毎晩同じ内容をくり返し。何かの嫌味か嫌がらせなのかなって、思いそうになるけど、
「今年は古和全体の豊作で、弓月の分ももろうたでよ。食うてもらわんにゃ減らん」
「そんなわけないよね。保存できると思うし二人で食べたら良いのに」
「よっと味わうて食うてかんにゃ」
 おばあちゃんはにこにこ顔で言ってくる。
「食べ過ぎにならんちょうどええ頃合いは、お大師様が教えてくれるでよ」
 お大師様そんな事までするヒマあるの? って、僕は信じていないんだけど口には出さないでおく。ふっへっへ、っておじいちゃんが、僕は初めて聞く笑い声を出した。
「ばあちゃんが言うても信じさせ切らんぞ。年々肥えて血圧の薬も飲みよるで」
 口の両端を持ち上げてまだぎこちない笑顔も作ってくる。嫌味、なのかなって思ったけど、
 おばあちゃんはにこにこ顔のままだ。
「食い気にはどうも業の抜け切らん。せやからにゃ、若いうちから気掛けとかんにゃ」
 古和に連れて来られた日のおじいちゃんは、まずおばあちゃんを叱り付けて、親に任せるべきだとか、お嫁さんが気を悪くしただろうとか、僕も聞いていてそうだよなって思っていたけど、
「死なせてしもうたならどないするや! 何の言い訳も立ち切らんぞ!」
「言い訳なんぞいるもんね! 一日でも構わんで生きさせる!」
 一日でも、構わないんだ。じゃあちょっとやってみようかなって、考えるとかもう苦しかったからほとんどやめちゃってた頭でそう思って、
 まだ生きてる、朝になってる、暑くなってきて水がもらえて、ごはんもらえてひと口ずつゆっくり食べて、何時間かおきにそれくり返してるうちに、夜になって、また、朝が来て、今日もじゃあ、生きとこうかなってやってた間、おじいちゃんの顔は見なかった。きっと、怖くて近寄れなかったんだと思う。
 何のかの言って男って、目の前で、今助からなさそうな命に対しては臆病で、結局お母さんとかおばあちゃんとか女の人の、強い気持ちの言いなりになるんだから、普段偉そうに強そうにしてなきゃ良いのに、
 って僕は横たわったままで思っていた。

「張山くん。ああ、神南備も」
 二学期に入った初め辺りの方で、部長が昼休みの教室にやって来た。
「すまない。九月からの活動は出来そうにない」
「ええ。分かってます。この状況ですし」
 まずは実力テストで僕も神南備も、寄せ合った机に教科書や問題集を広げている。それから体育祭に文化祭に、二年生だって修学旅行があるはずだ。
「それもあるんだが実は今、家の方が相当に大変なんだ」
 真剣な口調に表情だったから、部長は行かないかもしれないけど。
「大丈夫なんですか?」
「私は、問題無い。姉もきっと大丈夫だろうとは思うんだが……」
 姉、って言ったな、って神南備と、ちょっとだけ顔を見合わせた。
「大変には変わりない。私も姉も、知らされていなかった事が随分とあった。それどころか今生きている者達の中にも、経験のある者がいない。しかし、そうした全てが片付いたら」
 片付いた様子がもう見えているみたいに、堂々とした笑顔になってくる。
「本来の姿に戻せると思う」
 どこかさっぱりした雰囲気もある。肩に背中に乗っていた、重苦しい荷物が取れた感じに。
「林くんに木地くんも、今年は参加してくれるそうだ。協会で、募集されていたと」
 ちょうど教室に戻って来た足助が、入口に向けられた部長の背中に目を向けた途端、ビクッて血相を変えて逃げ出した。
「張山くんは見に行くんだろう」
 気になったけど話しかけられたしとりあえず後回しにする。
「はい」
「神南備は」
 神南備も、気付いて後回しにしたみたいな間を空けた。
「行きたい、ですけど……」
「家の人の許可が取りにくいかな」
 週末、だけど鬼神楽は夜だからな。昼間に見られるお寺もあるけど、古和が最後だし常眼寺にも一緒に行ってるし、おばあちゃんに話してウチに泊めてあげられたら良いんだけど、って思っていたら、
「あと一点、二人に頼みたい事がある」
「何でしょう」
「九月から十一月の間の、活動内容を考えてほしい」
 そっちの話に気持ちが持って行かれた。
「文化祭で何か披露できる事が望ましい、とされているが、そこは無理しなくて良いと思う。通常がどう動くものか、私も幸も分からないから」
 幸、って口にした事に、自分でも戸惑ったみたいで一拍、口を結んで、
「今まで組み込めずにいたんだ。予定が作れたら、年末からでも部室申請が可能になる」
 部室、取る気になったんだって、僕も神南備も嬉しい話みたいに引き受けて、
「しばらく間は空くが、次は、十月末かな。また会おう」
 って笑顔で出て行く部長を見送った後で、現実感が襲ってきた。
「そうか……。来年の二学期が過ぎたら部長、引退するんだ……」
 部長の場合今の時期にはもう、実質引退って事になるのかもしれない。
「林さんは卒業してるし、廣江先輩に幸先輩もいなくなるよ」
「うわ。すっごく心細い」
「頑張ってよ次期部長」
「えっ、僕? 神南備じゃないの?」
「発句人は男性が良いじゃない」
「そこはCDで構わないと思うし、僕人に教えるのとか向いてないよ?」
「そこ向いてるって堂々と言えちゃう人の方が、何かと問題あると思う」
「ねぇ。ねぇナビちゃん」
 近くで固まってしゃべってた女子二、三人が話しかけてきたけど、普段「ナビちゃん」って呼ばれてるんだ。
「今の人、誰?」
「……部長だけど。御詠歌部の」
「ええーっ!」
 神南備が答えた途端にどよめいている。
「何かすっごく、モデルみたいにカッコ良かったよ?」
「御詠歌ってお寺の前で、おじいちゃんおばあちゃんが集まってモゴモゴ言ってるイメージだったから、部長とか絶対変な人だって思ってたのに!」
 いや何でそう決めてくるのって、思ったって今の僕は知っているから。知らなかったら僕だってそんな風にも思うんだろうなって飲み込んだ。
「そうだった。見慣れてたけど部長ってカッコ良かったんだった」
「来年の前半までは集客が期待できそうよね」
 なんて話を神南備とは、していたんだけど。

 実力テストの後には、席替えがあって、部活が休みだと席も離れた神南備に、わざわざ話に行く用事が無くなって、
 神南備の方でも教室の中央辺りになった僕の席まで、わざわざ話しかけには来なくなった。
 毎朝顔を見たら挨拶はしていて、もう会えているんだから「おはよう」のメールは送らなくなったけど、「おやすみ」のメールは続けているし神南備からも返ってくる。
 実力テスト、は体育にも組み込まれているみたいに、体力測定があって、呼吸が出来るようになってフォームも直したら僕は、そりゃ速いとも言い切れないけどだからって、笑われもしない普通くらいには、走れる事が分かった。
「本気出したらやれんじゃん!」
 って誰かが言ってきて、悪気は無いって分かってるけど結構、カチンときた。
 そしたら体育祭のリレーには、僕も入れようって話になって、僕より速い奴なら他にもいるのにって思いながら、
「ちょっと、ごめん」
 言い出したらやけに盛り上がっていた教室の空気は、水をさされたみたいに静かになった。
「こないだは、タイムはマシだったかもしれないけど……、そこからしばらく息が、普段通りに戻せなくて苦しかったから……」
「大丈夫だって。結果出しといて何言ってんだよ」
 実行委員がなんだかちょっと、「へはっ」て吹き出す感じに言ってくる。
「見た感じ、呼吸だってすぐ戻ってたって」
 そりゃすぐ戻って見えるように、こっちも気を使ってたから。
「彼女に良いとこ見せられるしさ」
 誤解されても仕方ない気はしてるけど、神南備はまだ彼女じゃないし、リレーに僕が紛れ込んでいるのを、「良いとこ」だって思ってくれる気がしない。
「いつまで身体弱いフリしてんだよ」
「フリじゃない」
 ずっと黙っていた分も積み重なったみたいに、飛び出してきた。
「フリなんかでやってない」
 思っていたよりも固く響いて、空気がやけに凍りつく。僕一人だけのせいでもないと思うんだけど。
「俺も、リレーに出すのは違う気がする」
 足助が言い出して、空気がちょっとホッとした。
「弓月が本当なら今二年だって事は、一年の、他のクラスにも結構知られているし、勝とうが負けようがそのせいだ、とか、そのくせに、とか、思って言ってくる奴はいるだろう。弓月には、そこまで良い話じゃない」
「いや何言ってんの? だから良いんだって」
 実行委員は笑顔だけど、どこか気持ち悪く感じた。
「一年以上引きこもってたって、外に出られてみんなと同じように走れんだってのがさ」
 友達だから普段の表情とか良く知っているから、だけど、足助が僕よりもずっと腹を立てたのが分かった。
「それを弓月が前向きに受け止め切れるなら別だが」
 本気で怒ると口調は冷静になって、周りにはあまり伝わらないんだけど。
「だろ? だから張山の気持ち次第だって」
「そういう意味で言ってねぇよ」
 シバタが言い出すと、ちょっと空気がピリッとする。
「違和感、とか嫌な予感は、真剣に大事にしといた方が良いぞ? 変な音に妙なガタつき来てんのに、大丈夫だろって気持ちだけで車乗り回して、事故らないわけねぇって」
「そりゃ車はそうだろうけど……」
「車『は』、じゃねぇよ車『も』だっての。人の手足の延長だからな」
 そうだよな、って僕には納得できたんだけど、これだから車オタクは、みたいな感じに呆れ顔の奴もいる。職業病だと思うけど。シバタの家知らなかったら。
「悪いけど本当に、何か違うんだ。僕じゃない、と思う」
 結局そう言って断ったけど、
「ええ? 逃げんのかよ」
「そりゃ甘やかされて何もしないで済めば楽だろうけど」
 ニヤついたり呆れ顔だったりしている奴等には、そんなまとめ方をされた。

 部活も休みだから早く帰れるっていうのに、無人駅を出たその先の空は夕焼けか薄暗くて、懐中電灯を点けようかどうしようか迷う。
 その感覚もうっとうしいからきっと大丈夫だって、意地を張って点けないまま歩き出そうとして、
 違和感は大事だって、シバタの言い方を思い出して、照らした先にちょうど犬か何かのフンがあった。あぶな。気付かずに踏み出すところだった。
 夏場の蒸し暑さが残った生ぬるい風が、時々強く吹き当たって、早々と枯れた葉っぱを散らす。古和までは大丈夫、だけど古和よりも上の道は雪が降り出すと凍結して、車は通行止めになるから、今の時期から年末みたいな冬ごもりの支度で、電車は混み始める。
 実は旧道は立ち並んだ木々に守られて、凍結しないんだけど、そもそも旧道がある事を知られていない。知られたって二輪しか通れないんだから、よっぽど命に関わる用事でも無ければ、使われないけど。
「ただいま」
 家に帰ったらまずは、仏壇に手を合わせる事になっていて、どうしたって居間で新聞とか広げている、おじいちゃんと同じ空間に居合わせる事になって、
「弓月」
 って声をかけられて、
「何か、あったか」
「別に」
 ってひと言だけで背を向けて、出て行けたらこの場では楽だろうなって、思うけど、
 今からおばあちゃんを手伝って、お膳並べて夕飯も一緒に食べる、って考えたら、黙ったまま何も答えないってわけにもいかなくなる。
「大した、事は無いけど……、色んな事がなんだかちょっとずつ、上手く行ってない気がして……」
「ああ。秋やからなぁ」
 新聞広げたまま適当に聞こえる口調だけど、そのくらいが話を続けやすかったりする。
「季節関係あるのそういうの」
「昔っからよぉ言うでよ。一年の間周りにぎょうさん与えた者が、疲れ切って腹から力の抜け出す時期やで、よっと飯を食わさんにゃて」
「与えた人はね。僕は別に、何もしていないし」
 ふっへっへって肩の力が抜けたみたいに、新聞を下ろして、
「困った事によぉ与えた者ほどそれを言い出すでよ。与えた後のスッカスカが、ほんまの自分やて思い込む」
 畳んだ新聞紙を置いて老眼鏡も外してから僕に、向き合ってきた。
「気ぃ付けや、弓月。秋はな、人が、あさましゅうなるでよ」
 あさましい、って言葉の意味なら知ってるけど、普段周りで使われているところを聞いた事なんか無い。
「実りの多さに目のくらんで欲の出る。なるべく多く分取って、他に分ける気を失うてしまう」
 まだ煙と香りが届いて来る、仏壇の線香を指差した。
「三本目は餓鬼がきさんに上げるて前、言うたやろ」
 さ迷っている身寄りの無い仏様、の、本当の言い方だ。この辺りのお年寄りならそれで通じて、今更「それって何?」とか訊かない。
「なして餓鬼さんに上げるか言うたらな。餓鬼さん元は人やからや。人は自分達でも気付かんうちに、餓鬼さんを作るし成り果ててしまう」
 言いながらおじいちゃんも仏壇に向かって、火を点けたお線香を、僕が挿した分に並べて挿した。
「古和に生まれ育って暮らして、毎日線香なっと、上げておってもや」
 お鈴を鳴らして手を合わせて、おじいちゃんは「南無大師遍照金剛」を、三回唱えている。三って数字何か、意味があるのかな。お線香の三本目とも、関係があったりするのかな。
「欲しがる者がまず、あかんのやけども、欲しがらん者も良ぉはない」
 振り向いてまたあぐらになって、煙草代わりに吸っている、パイポを一本取り出して、
「今持ってるもん手に入れたもんを、きちんと見極め切らんで無駄にする。欲しがる者はただ欲しがるばっかりやからな。手を放しかけた隙に、奪われるでよ」
 ふっへっへ、って笑いながら、ちょっとゾッとする事を言う。カチャカチャと食器の音が近付いて来て、
「弓月ぃ」
 おばあちゃんが居間に入って来た。
「よっと熟れた柿むいたで。食べるか」
 食べない、なんて選択肢があるとか思えない。古和に移り住むまでは柿が美味しいだなんて、それどころかフルーツだとも思った事が無かったんだけど、この辺りの柿はリンゴみたいに大きいしツヤツヤしてるし、一個一個が重いし甘いし別物だ。柿を越える果物なんて、夏場のお盆の年に一回買える巨峰くらいだ。
 しかもおばあちゃんがコーヒーまで入れてくれて、機会があったら試してもらいたいんだけど、柿とコーヒーって結構合う。
「深見の姉ちゃんが、昼に来てくれてな」
「コトネさん、来てたの」
 おばあちゃんのお姉さんを、どう呼んだら良いのか分からないから僕は、名前で呼んでるけど、毎年秋になるとその年穫れた柿を届けに来てくれて、そのついでに、
「柿の葉寿司ももろうたで」
「いぇす!」
 って自分でも珍しいくらいにめっちゃくちゃ喜んでしまっている。
 柿の葉寿司柿の葉寿司柿の葉寿司。めはり寿司は家の味の最高峰だけど、柿の葉寿司は専門店。カウンターで大将に握ってもらうのが、本物のお寿司だって、古和に移り住むまではまんまと思い込まされていたけど、柿の葉に包んだ鮭とか鯖とかの押し寿司は、多分柿の風味とか成分なんかも染み込んで本気で旨い。舌とか胃袋とかよりも多分、内臓とか血液なんかが自分達から喜びに来る感じで。
 ふさいでた気分とか、何だったっけ、みたいな感じに味わってしまっている。
「イヤだなぁ食べ過ぎて太ったら。カッコ悪いし」
「弓月はもちっと太らんにゃ。まぁだ上にも伸びて行きよるでよ」
 ブツブツだらけで友達もいないのに、この上太りでもしたら最悪だって、元々食べられない食材も多いし、お母さんだって働いているのに負担が大きいから、本当の、実家で暮らしてた最後の一年は、あたたかいごはんなんか出されなくて当たり前だった。
「リレーに、選ばれたんだけどさ」
 お味噌汁飲んだ後のため息ついでに口にしてしまう。
「断ったけど。出といた方が良かったって思う?」
 訊きながら本当を言うと頭のどこかで、どういった言葉が返ってくるか分かっているような気もしている。
「選ばれるほど速なったて思うか? 自分では」
 おじいちゃんはまず他所の評価が(少なくとも僕自身にとって)本当かどうかを気にするし、
「ううん。だけど、『当日まで練習すれば慣れるしもっと速くなんだろ』って、ほとんど強引に話持って来られて」
「三日くらいは息の戻らんでしんどそうにしとったでよ」
 おばあちゃんは僕の調子の悪さに、時々僕以上に気付いてくれる。
 お父さんお母さんに同じ訊き方をしたら、きっと「出るべきだったのに」とか「どうして大事な所で逃げるの」とか、「ようやくまともらしくなったんだな」って僕を引き取りに来て、
 おばあちゃんに形だけでも「ありがとう」くらい、言ってくれそうな気はするけど、
 おじいちゃんおばあちゃんには大して嬉しい話でもなさそうだな、って思ったら、どっちが良いかなんて本当は、迷う気もしていない。
「きちんと、断れたとやな」
「うん。足助とか、シバタが口出してくれて」
「ええ友達やな」
「ホントだよ。何で僕なんか気に入ってくれてんのか分からない」
「弓月」
 おばあちゃんだっていつも、にこにこしている事が多いけど、
「嘘は言うたらあかんで」
 だからって厳しくない人だとか、僕には思えた事が無い。
「弓月は、ええ子や。自分でも、本当は分かっておるで、嘘の出る。誉め言葉は他人の口から聞かされたいもんやでよ」
 叱ってくる時は真剣に、間違った所だけを突いてくるからとにかく恥ずかしくて、言い訳も浮かばない。
「せやけど嘘は言い続けたなら、信じられてしまうで。他人からもやけど、自分からもな」
 食べ、と言ってくるみたいに柿の葉寿司の、鮭と鯖一個ずつ僕の前に並べてくる。もちろん夕飯の前に言っているんだけど「いただきます」ってもう一回、柿の葉開きながら口にした。
真信まさのぶは長男やったでよぉ」
 おじいちゃんの口から出る時のお父さんだ。
「家を継いでもらわんにゃ、男やで強ぉ育たせんにゃて、気負い過ぎて厳しゅう当たってよ、飯を食うとる間も、こない話なんぞさせとらんで」
 家族で暮らしていた時も食卓はいつも静かだった。仕事で遅くなる事が多いからお父さんが帰るよりも早めにみんなは夕飯を済ませるんだけど、僕が入って行くとそれまでの、笑い声も話し声も無くなって、冷え切った目で僕を見る。
「娘二人を教育するのも、女の仕事やろてばあちゃんに、任せ切りでよ」
「仕事をいっしょけんめしよったでじいちゃんは。あたしはしゃあないて、思えよったけども」
 それでもおばあちゃんでも「しゃあない」どまりなんだなって、僕よりも先におじいちゃんが気が付いたみたいに笑っていた。
「いやぁ思い返したならオレは、良い父親と違うかったな」
 そんな事無いよ、とか、言ってあげた方が優しい子みたいに思わされていた気がするけど、
 お父さんに、叔母さん二人も出て行ってこの家は、毎日本当に広すぎる。

「弓月」
 帰り際になるとこのところ、足助が近付いてくる。
「ああ。うん、大丈夫」
 部活が無いものだから、時々足助と帰るようになった。足助は帰るわけじゃなくてバイトに行くんだけど。
 足助も僕も、自分からしゃべり出して話を広げる方じゃないから助かる。話せる奴場を盛り上げた奴が、周りに気を使える良い奴みたいな空気、時々疲れるから。
 お互い何も話さなくたって、居心地は悪くないし、一人になりたい時は離れてくれる。お互い何か話し出したらそれは聞くし、大した返事返さなくたって、返されなくたって構わない。要するにちょうど相性がいい。
 深見駅で乗り換えて、進行方向に向かう二人席に並んだところで、言われた。
「話したい事があるんだが」
「何」
 正面に背筋を伸ばして座ったまま、僕には顔を向けて来ない。
「決して話してはならないと言われている」
「じゃあ話しちゃダメだよ」
「そうだな」
 それから次の駅が近付くまで、黙っていたけど。
「かなり、しっかりと残念な事がある」
「足助」
「これはまだ、話せるし伝えた方が良いと思う。俺は鬼神楽を、見る事が出来ない」
 意外、に思った気もするし思わなかった自分もいて、何の反応も返し切れずにいた。
「神楽の日俺は、神楽の初まりから終わりまで、音谷に居なければならない」
「お堂の中に?」
 訊いたら「うくっ」て、何か固い物を飲み込んだみたいな声を上げて、
「ああ」
 ってやっぱり僕の方は見ずにうなずいてくる。
「柵越しで、それ以上近付けないって聞いてるけど」
「ああ。親兄弟は、そうらしいな」
 ふうん、って思って一拍置いて、ん? って違和感を広げたら、首筋の毛が逆立つ感じがした。
「あくまでも、神事だ。ウツワは清められていなければならず、俺は神楽の日まで一切の」
「ストップ!」
 電車の中に相応しくない音量だったから、周りの席の人達がそりゃ驚いて振り向いて来て、円周に沿って「すみません」って、何回か深く頭を下げてから、周りの人達と同じくらいには驚いていた、足助に向かって小声で言った。
「多分、だけどそれ以上、言っちゃいけないし、聞いちゃいけない」
 僕が言うまで足助は、それほどとも思っていなかったみたいで(何のかの言って天然なんだ)、
「セーフ?」
 って声よりも身ぶりで訊いてくるから、
「セーフ」
 って僕もほとんど身ぶりで返した。
「緊張がとんでもない」
「聞いてない。僕は、何にも、聞いてない。聞いてないから何にも分からないから、聞き流してもらっていいんだけどその」
 小声だけどしゃべり続けて苦しくなってきたから、一旦息を吸って、ため息の後に呟いた。
「大変だな」
 ああ、って足助は、まずため息にしか聞こえない声を返して、
「ありがとう。そう言ってもらえると」
 って結論部分は口に出さなかった。


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