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『唱え奉る河内國春乃井学園御詠歌部』第12話

第1話(末尾に全16話分のリンクあり)
(文字数:約13100文字)


12 おそらくは 心得ている 常眼寺

 午前中の早い時間に、足助は一人だけ先に帰ったけど、みんな部屋の中や台所で挨拶して、他の一人以外玄関を出ては行かなかった。
「ああ足助くん、お弁当にめはり寿司を」
 っておばあちゃんが出て行きそうになったけど、それは僕も持たせてあげれば良かったと思ったけど、玄関に向かう途中で止めて、
「ごめんおばあちゃん、今、みんなが気を使っているんだ」
「なんを?」
 初めは分からない感じでいたけど、おばあちゃんも、そりゃ人生経験は長いから、神南備に廣江さんの表情も見て、大体を察してうなずいてくれた。

 常眼寺は無人駅から、更にふもとに向かって徒歩十分くらいの所にあって、
 約束の時間少し前に着いた時、御住職は、ちょうどお堂を開けてくれていたところだった。
 回廊を回って正面の階段を下りて、境内からの、坂道を上っていた僕達の前まで出迎えに来てくれる。
「これはこれは、ようこそお越し下さいました」
「お時間を割いて頂き有り難うございます。御詠歌部部長の、小石川です」
「電話を下さった方ですかな」
「いえ。それは……」
 部長が振り向いてきたから合わせてお辞儀する。
「張山です」
「ああ。そうでした」
 僕に向けて、一つうなずいてからまた部長を向いた。
「高校の部活動に、御詠歌とはお珍しい。活動歴は長いのですか」
「いいえ。私が去年、立ち上げたばかりで……」
「何か、御興味を持たれるきっかけでも?」
「父が、趣味でよく聴かされていたので」
「え。音谷に」
 隣で神南備が言い出しそうになったから、手を握って止めた。
「ええ。出身地が音谷だと」
「ああ。良い所です」
 笑顔で言い切られて部長は、普段自分が周りをそうさせている時みたいに、何も返せなくなっていた。
「戦前までは音谷にも、わりと多くの人がいたようですが、戦後は仕事を求めて山を下りなければならなくなったと聞かされていますな。何分私にとっても子供時代だ」
 そう言ってくる御住職は確かに六十は過ぎていそうだ。おじいちゃんおばあちゃんと同じくらいか、もう少し上かもしれない。
「音谷を出た者はええ、御詠歌を聴き続ける方が多いです。御詠歌協会の中にも先祖が音谷であった者は多くいます」
 御詠歌協会、と思って目をやった廣江さんは、林さんと目を合わせていて、
「子や孫にまでは話していなくとも、御詠歌だけは歌い継いで、機会があれば、お唱え出来るようにさせている」
「詠監殿」
 御住職の言葉が終わったところで、林さんが進み出た。
「ご無沙汰致しておりますぅ。林ですぅ」
「ああ! 詠唱くんか! そうか君がいるのなら心配はいらないな」
「あの、木地です」
「ああ、下の娘さんだね。お姉さんはどうしておられるかな」
 お堂の前でもちろんお坊さんの黒い着物姿なんだけど、一気に親戚のおじさんみたいな雰囲気に変わってしまった。
「林くんに木地くん……」
「ガッツリお知り合いだったんじゃないですか」
「ええもちろん。御詠歌を学ぶ身と致しましてはぁ」
「幼い頃から、家族ぐるみで」
「だったらもっと早く教えて欲しかった……」
 部長は出し抜かれた感じでいるけど、
「CDを買われているくらいでは、まさかお会いしたがっているとまではぁ」
 目を細めて林さんは、悪びれていない。
「それにこう申してはなんですがぁ、今のこの機会が絶好と思われますぅ。ちょっと前まではええ、悪気は無くとも、無礼、と受け取られかねない様子でしたからぁ」
 言われて部長以外のみんなが吹き出して、
「今頃そんなに笑われても。あの時に言ってくれなくては」
「今頃ようやく笑い事に出来たと言う事でぇ、ご理解頂ければぁ」
 理由が分かっていない御住職の前で失礼だから、みんななるべく早く落ち着こうとしていた。
「他の部員の方も、良ければお名前を」
「神南備です」
「神職の、家柄ですか。それもまた何かの御縁ですね」
「小石川です。部長とは、双子で」
 幸さんを見た時に御住職は、浮かべていた笑みを消して、部長を振り向いて、
「なるほど似ておられる。それでは」
 右の袖を差し上げて坂の上に向けた。
「皆様お堂の方へ」

 正面の階段を上って靴はそこで脱いで、回廊を回って右手にある引き戸から、中に入ると、
「大日如来!」
 神南備がお気に入りのアイドルでも見つけたみたいな声を上げた。
「すみませんっ、後でっ、一枚撮らせてもらっても良いですか?」
「ええ結構ですよ。今の時間にでも」
 許されたら即みたいに、首から下げていた本気のカメラを構えている。
「内陣まで入って頂いても」
「ありがとうございますっ!」
「そんなにテンション上がるもの?」
 僕も隣について行って見上げたけど、他の仏像との違いも分からないし、細工とか彫刻なんかはすごいなって思うけど、本当の事言っちゃったら無機物じゃないの? って思うんだけど。
「前に話したじゃない。大日如来は宇宙の中心にいるお方だって」
「それってどこだか分からないし、観測とか出来ないし、太陽を表した、みたいな話も前にしてなかった? 宇宙の中心が太陽っておかしくない?」
「仏教における宇宙は、生まれた瞬間から誕生し、亡くなる瞬間に消滅します」
 黒い着物の上に袈裟を掛けながら御住職が、答えてくれた。
「もちろん現代科学で語られる、宇宙とは違います。しかしながらあなた御自身が、宇宙を認識できる時間の幅は、その間しかない」
 詳しくは分からないけどお香とか、水を入れた器みたいな道具も、正座で向かった台の上に並べて取り揃えている。
「それってたまに聞きますけど、『僕が見る世界と、他人が見る世界は違う』って話ですか?」
「はい。概ねその通りですが」
 台の上で、細い煙の中につまみ入れられた粒から、香りが広がった。
「それを宇宙にまで広げて頂けたら」
 って言われた瞬間にイメージが広がって、
「わ」
 世界くらいは全然大した事ない話みたいに思えてしまった。
「一人一人がどれほど尊い存在か、といった話にもつながります。人によってはそれが信仰の入り口にもなる」
 当たり前だって誰かから叱られそうな気もするけど、お坊さんって、ただお坊さんだから偉いわけじゃなくて、お坊さんを職業にしてさっきみたいな話とっさに出来るくらい、ずっと勉強とか修行とか続けているから偉いんだなって、今更納得したけど誰もそういった事教えてくれなかったみたいに思うんだけど、みんな当たり前みたいに知っているのかなこういう事。
「神南備。張山くん」
 呼ばれて「はい!」って答えながら、仏像正面に敷かれた赤いじゅうたんの上に並んでいた、みんなの所まで行った。左から林さん、廣江さん、部長が座っていて、
「張山くんはここに」
 って部長の隣を勧められた。
「僕は一番端でいいですけど」
「しっくりくる」
 言われて右を見たら神南備に、一番端には幸さんが座って、ああこれいつもの教室での並びだって気が付いた。
 お堂の中央が一段高くなっていて、大きな紫色の座布団を乗せられていてそこが御住職の席だと思うんだけど、
「それでは」
 まずは僕達と同じ高さに僕達に向かって座ってくる。
「何か、御質問などは御座いますか」
 って訊かれた時に「あ」って、口をついて飛び出してしまった。
「すみません。『仏』と『仏様』って何か、違いますか」
 顔を上げて御住職は、一度僕達の並びを見渡して、
「身近な人で、仏に『様』って必ず付ける人と、いつも『仏』としか言わない人がいて、だけど、どっちも敬ってないわけじゃないし、何か違うのかなって……」
「ふむ」
 って一つうなずいてから答えてくれる。
「厳密に言えば、『様』を付ける必要はありません。ですが、信仰を長く続けておられ、仏が何であるかを、頭ではなく、日々の生活の内に心得ている方でしたら、『様』を付けても問題は無いでしょう」
「仏って、何ですか」
 目線が上がって僕を見る。
「って、訊いても答えてもらえない、って言うか、答えられても理解できないって、諦めてしまっていいものですか」
「いいえ。答える事は可能です」
 僕に向かってうなずいて、
「最も短い一語で申し上げるなら、『命』です」
 答えてくれる間はずっと少しだけ、目を伏せている。
「ですからただ仏のみを、敬うわけには参りません。『様』を付けるのであれば全てに、この世のありとあらゆるものに、『様』を付けて取り扱わなければならない。しかしながら人の身には、それが大変に難しい」
「不可能ではないですよね」
 目を伏せたまま、少し間を空けてうなずいた。
「ええ。不可能ではありませんがどうしても、人の身には煩悩が生じ、執着が生まれてくる」
「それ」
 目線が一瞬僕を見る。
「好きなものや、好きな人が出来る、とかに、言い換えてしまったらいけませんか」
 顔を上げてほんの少しの違いだけど、身体全体も僕に向けてきた。
「煩悩、とか、執着、って聞いちゃうと、何だか悪いものとかダメなものに思えちゃって、せっかく好きになった気持ちも、抑えなきゃなくさなきゃいけない、みたいな感じがして、だけど、それって何も、悪い事じゃないですよね」
「ええ。仏教は、煩悩に執着を何も、否定はしていません」
「そしたらその、仏って、結局どう理解したらいいのかなって、そもそも理解できるものじゃないとか、信仰とか、修行を続けなきゃ分からないものかもしれないんですけど……」
 自分でも質問の行き先が、分かっていなくて、イラッとさせるだろうなって思うんだけど分かっていないから訊きたいんだし、上手く訊けたってその分だけ、「分からない」が切り離される感じがして、
「分からないなりにどうにか、なるべく良い声を出そう、それに近付けようって思ったら、信仰、自体がまだ良く分からないって僕みたいな、中途半端なところにいる人は、どこからどう考えていったらいいですか」
 自分なりに頑張ってどうにか組み立てたつもりだけど、御住職は、少しうつむいて腕も組んで、黙り込んでしまった。
「すみません」
「いいえ。大丈夫です。私も、今、考えています」
 ゆっくりと、腕をほどいて正座の上に置き直してから、顔を上げてくれた。
「私は、僧侶ですので、どうしてもなるべく間違いの起こらないように、仏教の言葉で考え、仏教の言葉に即した答え方をしてしまう。難しいだろう、これでは伝わらないだろうと思いながらつい、仏教の文脈に、説明を加える形を選んでしまうのですが」
 ふっと軽い笑みを乗せてくれる。
「こう考えるのはどうでしょう。『あなたが何を思おうと構いはしない。心から何を好きになろうと、心の底では何を嫌いであろうと、命そのものには何の関係も無いのだ』と」
 多分ものすごく、普通有り得ないくらいにやさしい答え方をしてくれたと思うんだけど、僕は、頭の中で何回か、くり返してやっぱり頭を下げた。
「ごめんなさい。納得できません」
「できませんか」
 ちょっと、笑っている感じの声が返ってきて、そうじゃなかったらお堂にいる間僕は、このまま頭を上げ切れた気がしない。
「はい。何でかって言うと、その……」
 だけど頭を上げて見た御住職は、はっきり分かる笑顔でいたから、もうついでにずっと言えてなかった事、ここでしゃべってしまってもいいかなって気になった。
「僕は、小さい頃からずっと、その、自分が嫌いで……、とにかく大嫌いで自分が生きていて今息をしてるってだけで嫌で、自分で自分の身体を結構ひどいところまで、痛めつけちゃった事があるんで……、そういうの、命に関係無いって言われても、ちょっと……」
「今は、お元気そうに見えますな。とても健康そうだ」
「はい。この辺りの人達にだいぶ、助けてもらって」
「この辺り? 古和ですか?」
「はい。張山です」
「ああ! 弓を張る方の張山さんか! じゃあなんだ、弓月くんだね!」
 今まで気付かれてなかったんかい、みたいなツッコミがみんなの顔に浮かんだけど、檀家の孫って一人一人は菩提寺との関係このくらいのものだと思うし、
 古和に住み始めて二、三ヶ月の間は、おばあちゃんが相談に行くからうちにも来てくれたりしていたけど、
「いやだいぶ若い子が住み着いてくれて、おかげで私も皆も地域の仕事が減って楽になったと」
 その時期の事は御住職の方が話してこない。
「僕一人分じゃそんなに、大して減ってないと思いますけど」
「ただ一つでも減らせる事が肝心です」
 すぐに敬語に戻してくれる。
「ですから、ほら、今申し上げた通りです。あなたがどれほど心を固めても、命そのものには関係が無く、命はあなたを見捨てなかった」
 はい、うん、そうですねって、ここでうなずいて終わらせていい、そうしようって、何度も首をタテに振ろうとしたんだけど、動かないものだから言ってしまう。
「すみません。自分でも、まだ言うかって感じでうっとうしいんですけど」
「何でしょう」
 もう慣れた、みたいな感じでお堂の雰囲気が笑っている。
「僕は、偶然、運良く助かったから多分、そんなふうにも思えますけど」
 勢いで、口に出してしまう前に息を吸った。
「助からなかった人や、その人の、家族とか仲が良かった人達は、じゃあどう考えたらいいのかなって……」
「ええ。仰る通りです」
 そしたら御住職も笑みを消して、
「そうした場合に掛けられる言葉は、残念ながら私もあなたも、誰も持ち合わせていません。なぜなら言葉というものは、命のごく一部に過ぎないからです」
 やさしい言い方をされているのに、突き刺さって何も返せなくなった。
「ですから私どもは、ただ読経を差し上げる。ここでは御詠歌もお唱えして、亡くなった魂に申し上げる」
 そしたらもう、本当にどうしようもない。出来る事なんか何も無いんだって、はっきりしてて、
「あなたは仏になったのだと」
 言い方は変え切れても、その人本人は亡くなっていて、
「家族の方に所縁ゆかりのあった方々にも申し上げる。愛する人は仏として、命そのものを今、生きているのだと」
 好きだったら好きだっただけきっと、生きている、とか言われても、考えを変えて行こうとしても無理がある。
「そしてまた、いずれ、身体を得て生まれ落ち」
 だけど御住職は、そこで笑みを乗せてきた。
「言葉に迷う」
 そう言われた瞬間、
「あ」
 って頭の中いっぱいに詰まっていた考えが、一気に縮んで小さく感じた。
「何か……、どうだっていい話だって事が分かりました」
 口に出しちゃったけど自分でも、変な言い方に聞こえて恥ずかしい。
「いや。そう言い切っちゃうのも何か、違うな。言葉って何だか、いつも大事なようでどこか……、そんなのどうだっていいって言うか、ずっと、何をどうしたって分からない。だって、その、正解が、無いから。相手とか、その場の空気とかで変わっちゃって」
「言葉も身体も命の、ごくごく一部ですので」
「ですね」
「悩み迷うのがごく当然の、ありのままの姿です。ですから仏教は、何事も否定などしていない。ごくごく一部、でありながら常に仏と、命と共にある。ごくごく一部、なのですからそこは、疑いようがありません」
「はい」
「ねえ」
 って右隣から声がして、
「部長って、弓月くん?」
 神南備の、呆れ顔を見せられたら「うわっ」てなった。
「すみません部長っ……!」
「いや神南備、全く構わない」
 部長は左隣で笑っている。
「ずっと興味深く聞いていた。そして羨ましい。下手に知ったつもりになっていると、かえって本質が見えにくいものだから」
「深見市の大会に出られたらよろしい」
 言われた途端に林さん、廣江さん、部長の三人が真っ青になった。
「いやそれはそれはそれはそれは」
「無理です無理です無理ですっ」
「出させたくありませんっ」
 揃って首を横に振りまくっているけど、この三人にここまで嫌がられると、とんでもなく恐ろしい場所みたいに思えて仕方ないんだけど。
「いえ。本当は誰が出ても良いのですよ。むしろ私は出てもらいたい。しかし出たくないお気持ちは察しますしまた、出ないという選択も存在します」
 木で出来た長い数珠をジャラジャラと、揉むみたいに鳴らして、
「それでは何か御希望の歌はありますかな」
 って身体を今度は部長に向けた。
「『相互供養和讃』を」
「ああ。良い歌です」
 うなずきながらにこやかに、微笑んでいたけど、
「しかし」
 って部長が言った時に目を開けた。
「私は見よう見まねの、手探りで始めて、ここまで皆を付き合わせてしまったもので、本来必要となる所作なり作法なりが、大部分抜け落ちたままと思われる。御住職が今の私達にとって、適切と思われる流れを一度、御教示願いたい」
「結構」
 声も顔も、お堂の空気も一気にピリッとした。張り詰めた、厳しい感じだけど多分、本当はこういうものなんだって、見せて良い相手だと思われた。
「それではまず三信条、五綱目、般若心経読授より始めさせて頂きます。これは当流派全ての仏事に必須の項目であり、欠かす事が出来ません」
 そうだったんだ、って冷や汗が出る感じがしたけど、横目に盗み見た部長の顔にも同じ文句が書いてある。
「歌はまず『いろは歌』。『相互供養和讃』もよろしいでしょう。この二つは皆さん御存知のようですので是非、御唱和願いたい」
 身体ごと振り向いて正面の仏像を僕達に、見えやすくして、
「そして本日ここに祀られている仏は、大日如来ですので」
 また僕達に向き直ってから言ってきた。
「大日如来の御詠歌を」
「ええっ!」
 って神南備が声を上げた。
「大日如来のお歌、あったんですかぁっ!」
「はい」
「だけどっ……、全集見ましたけどそんなお名前……」
「『天地あめつちのまこと』の、第二部です」
 僕の右隣でガックリと背中から崩れている。
「それは無理……」
 左隣では部長も顔を押さえてうつむいているし。
「すまない神南備。私は付け焼き刃だった」
「いいえ部長。私もひと通り見ただけで、思い込んでしまいました……」
 その間に林さんの方から、コピー用紙をホッチキスで留めた束が回って来た。一部取って右側に渡しながら目をやると、さっき言われた三信条に五綱目、次のページに般若心経が綴じられている。
 いろは歌、相互供養和讃の楽譜が続いて、
「大日如来まで入っているじゃないか林くん」
「常眼寺ですからぁ。ご本尊の、地蔵菩薩も入れてますぅ。どちらかになるものと思いましてぇ」
「拝見」
 って差し出された手に渡して、御住職がひと通りめくってから、
「ありがとう」
 ってまた僕に返してくれた。
「最後は『同行どうぎょう二人ににん』にしましょう。本来の、僧侶が唱えてきた御詠歌の一つです」
 詠唱くん、って目線と仕草で林さんはうなずいて、林さんのそばにあった台からもう一枚の楽譜を回してきた。
 ざっと目を通しただけでもちょっと、気が遠くなった。「ん」の音がものすごく長く音も細かく変わりながら続くとか、有り得なさすぎる。
「難しい歌ですが、先ほどお話した内容に即しています。歌の中ではお大師様、と称されていますがつまりは、常に仏と共にある」
 ああ。それで「お大師様」が、どうも馴染まない気がしていたんだ。生きていた頃の人の姿が重なって、その人ただ一人を大事にしなきゃって感じがして、
 だけど、それも言い方の問題でだから、「ごく一部」だ。
「『いろは歌』、『相互供養和讃』、大日如来、『同行二人』、を終えましたら私どもでは、真言が必要になります。呪文、のように言われますけれども要は、仏のお名前を敬意を持ってお呼びしている、そう思って頂ければ」
 ホッチキスで留めた分の最後のページにその真言も並んでいた。
「金剛菩薩、歌並びに声を司る仏」
 オンバサラ ギテイギク
「金剛菩薩、舞並びに音を司る仏」
 オンバサラ チリテイキリダ
「そして南無大師遍照金剛、今この場にもおられます、弘法大師の御宝号をお唱えする事で、本日ここにある皆様と、御詠歌をお唱えする機会を頂けた御縁に、感謝を申し上げる」
 立ち上がってようやく御住職は、大日如来に向かう高い席に着いた。林さんに廣江さんも輪袈裟を掛けて、鈴と鉦を並べる。
 カン、とか、パン、みたいな、文字に変えにくい鋭い音がして、後で拍子木だって聞いたけど、僕がイメージ出来た拍子木とはだいぶ違う。そして御住職の声も、それまでしゃべっていたものとは一段違った感じになった。
 言葉だし意味はあるんだけど、言葉の外側の響きが、同時に鳴っている。
 場が引き締まった気がするし、やっぱりその声は、分かりやすく表すと「良い声」で、合わせて声を出しやすい。確かに必要な、作法なんだろうなって思ったけど、言葉だけを追いかけていたらそれは、ただのお経で、
 宗教に僕以上に興味が無い、例えばお母さんみたいな人に、聞かせられないし唱えているところを見せられない。

   とぉなぁえたてまつるいろはうたのぉ、ごぉえいかにぃ

 歌が始まったら音に集中しようって、楽譜に向かえたけど。
 いろは歌は一つ一つの音が分かりやすいし、部活の度にまず唱えるから楽譜を追わなくても結構出て来たけど、終わった、と思ったらまた初めに戻って、そうだ二回くり返すんだったって、少し慌てた。
 相互供養和讃は曲は明るいんだけど、音が短い間に細かく変わるから、楽譜を見ていないと出て来ない。だけど、2の音3の音4の音、8の音7の音6の音、って、螺旋を上ったり下ったりしながら、クルクル回って行く感じは、ちょっと楽しい。
 ってやった事ある人じゃないと分からない事言ってるな、とか、だけど、ほとんどの人には分からない事やってるんだ、ってのが、ふっと思い出した時に妙に面白かったりする。
 大日如来の楽譜は初めて見るけど、基本は八つの音とその半音、の組み合わせだし、出来るだけ読み取りながら合わせるつもりでいたら、

   みぃ~ぃいぃ

「えっ! ごめん! ちょっと待って!」
「なっ……! すまない。ちょっと、止まってくれないか!」
 同時に言い出した部長と顔を見合わせた。
「どうしたの?」
 神南備が訊いてきて、
「ここで音、上がるの?」
「この音は、『1』じゃないのか?」
 それもほとんど同時になった。
「螺旋状の音階をぉ、一周回っての『9』になりますぅ」
 あっさり言われたけど、一周回っちゃうと楽譜では同じ向きになって見分けが付かない。
「歌詞の三行目は基本音が上がるって、教わったじゃない」
 って神南備はちょっと呆れ顔だけど、
「いや知ってるけど! 『2』の半音からいきなり『9』に上がるなんて思わないよ!」
 半音もあるから西洋で言うなら二オクターブ近く跳ね上がる感じだ。
「って、それ部長から教わったんですけど」
「基本、だから例外も存在するものかと……」
「『峯の松風』、って歌詞だから」
 廣江さんは優しそうに微笑みながら、結構容赦の無い解説をしてくれた。
「高い所で高い音が、鳴っているイメージだし、下がると感じる方が、難しいかなって」
「まぁ確かに『2』の半音から『9』に上がって、次の音はもっと高いって」
 幸さんは御住職に顔を向ける。
「これ、男性が出すのは難しいですよね?」
「はい。練習を重ねなければ初見では、男の方はまず出ません」
「女性でもちょっと大変だもの」
「道理で有り得ないと思ったんだ……」
 ってそこでは言葉まで重なって、また部長と顔を見合わせた。クスッて幸さんが笑ってくる。
「ほら。整ったウツワじゃないんじゃない」
「今その話は関係無いだろう。幸」
 拍子木の音がして、みんなが口を閉じる。
「出せなくても構いません。しかし、出せる限りは頑張って下さい。出せない間もお唱えしている心持ちではいるように。人の耳を気にする必要はありません。自分の声をまずは聞く。それが何より重要です」
 御住職の声は普段に戻ってやわらかかったけど、つまり叱られたんだなって、途中で止めてしまったのは本当なら無礼なんだろうなって改めて、楽譜に向かって、
「はい」
 って言った声も部長と重なった。
「ちょっ、とすみません。もうひと言ここでっ、余計ではありますが」
 林さんが言い出して、御住職が意外そうに振り向いた。
「詠唱くん」
「ごめんなさい。私も」
 って廣江さんも言い出して、左から二人並んで見詰めてくる。
「部長と部員で、同い年、とは言っても先輩と後輩、でしたので、今まで気にしていなかったんですが……」
「顔立ちに、背格好は違うし、しゃべり方に雰囲気だって、違うんだけど、同じ高さに並んで見ると……」
 右端からは幸さんの声がした。
「晃と弓月くん、そっくりよね」
 言われてまた顔を見合わせたけど、同時に首を傾ける。
「そっくり、とは、どこがだろうか……」
「いや。それだけ違っててそっくりとか言われても、意味が分からないんですけど……」
「そういうとこや」
「自分の姿だけは、見えていないの」
「人に言われてもなかなか認めないし」
 右から左から次々来るけど、
「いや誰だって結構そういうものじゃないの?」
「って言えちゃうか言えないかだけが全然違う、みたいな」
 神南備に言われて隣を見たら、部長は顔を押さえてうつむいている。
「いや皆さん御縁があったものですな」
 って御住職は笑っているけど、
「道理で気持ちが固まりにくいなって」
「ある程度から距離を詰め切れなかったはずよね」
 右側の二人が小声で呟いていてやたらと気になる。
「大日如来のお堂で、大日如来の歌、という事で、お二人が迷われたのも何かの縁起と思われますが、始めてしまったものはとりあえず、終わらせてからにしましょうか」
 それでようやく改まって、大日如来から仕切り直した。
 同行二人はもう、歌詞とか音の流れ方も分からなかったから、諦めて楽譜を追いながら聴いていて、それでも林さんに廣江さんは、鈴に鉦も合わせて唱え切れていた。
 僧侶が唱えてきた、本来の御詠歌。だけど、本来の姿って、すごいけど知らない人分からない人を驚かせて、人によっては怖がらせるなって、
 だから隠される。自分から隠れに行く。何で隠れるんだろう。自分にも分からなくなる。
 って、昨日から今日にかけて聞いた事やイメージが、去年とか今年の春にあった分も、つながって色々頭に浮かんできて、後半は集中できていなかった、気もするし、
 あれ。一曲分の間だったんだって、ずいぶん集中していた気もする。
 真言と、南無大師遍照金剛もそれぞれ、三回ずつくり返して、御住職に合わせて大日如来に頭を下げた。

 高い席から下りて御住職は、また僕達を向いて座り直して、
「ところで鬼神楽は御存知ですか」
 訊かれた部長は「いや……」って言いかけたけど、
「はい。もちろんです」
 右端から幸さんが答えていた。
「寺ごとに御詠歌が唱えられる事は」
 僕に顔が向けられた感じがして、
「はい。知ってます。今ここにいるみんなは」
 答えたら「そうですか」ってうなずいていた。
「お唱えしながら思い返していたのですが、昨年の、当院での御詠歌には『相互供養和讃』を選ばせて頂きました」
 ああ、って多分みんな意外にも思わなかった。
「珍しいですよね」
 訊いてきた幸さんに御住職は身体を向ける。
「はい。鬼神楽でお唱えする事は、まずありません」
 隣で部長の肩が強張って、気にはなったけど目を向けないようにしていた。
「当初は別の歌を、御用意していたのですが、急遽変更しても回廊の下にいる、御詠歌協会の方々が皆ほぼ完璧に対応できる歌となると」
「なぜ変更したんですか?」
 真面目そのものみたいな様子できっぱりと、
「なんとなくです」
 ってふんわりした答えを返されて、幸さんは何も言えなくなっていた。
「あの、すみません」
 僕が言い出すと御住職は、にっこり穏やかな笑顔になって、つまり僕は何も知らない子供扱いだって分かったけど、本当にそうだから傷つかない。
「前から気になっていたんですけど」
 前に、幸さんにも訊いた事だけど、お寺ではどう答えるのか気になった。
「どうして仏を讃える歌を、鬼に向けて唱えるんですか?」
「どうしてだと思われますか」
 訊き返されて、今日話した事を思い出す。
「鬼も、『ごく一部』だからかなって……」
「違います。鬼も、『命そのもの』だからです」
「え」
 って口から出て、「あ」ってうなずくまでの間を御住職は待ってくれた。
「人から見た際の、姿形に名前が異なるだけです。ですから私どもは、鬼もまた『仏』として敬います。舞に応じた歌をお聞かせしなくては、失礼に当たる」
「明らかな間違いがあった場合に、それを伝えないのは不親切な気がしますけれど」
 身体は幸さんに向いていたから、御住職は顔を正面に戻して、
「それは私どもの役割ではありません」
 笑みは少し残したままで答えていた。
「明らかな間違い、など真実に、存在するかさえ分からない。間違い、と思われる出来事が生じた結果、人はそれぞれに思い悩み、深く学び、身近にいる思い悩む者を思いやり、学んだ事に、学ぶ様子が新たな縁を呼び寄せる」
 はっきり口にしちゃうと恥ずかしくなりそうだから黙っておくしかなかったくらいに、僕達の事を言っている。
「間違い、といえども無いよりは尊い。真にそう言い切るためには、実は多くの修練が必要ですが、一つの考え方として知っておいてもよろしいかと、今、思いましたので付け足しておきます」
 有難いで弓月、しっかり忘れんと覚えとくんやで、っておばあちゃんが今ここにいたら言いそうだけど、これも「ごく一部」なんだよな、って思っていたのが聞こえたみたいに御住職は、うなずいてくれた。

 お堂を出る度お堂の正面に下りる度に、みんなそれぞれに御住職にはお礼を言ったり頭を下げたりして、お寺はここで解散だって、一人ずつ坂道を下って行って、
 最後に部長と幸さんが改めて、お堂の前に並んだところで、
「それで、今年はどちらが来られるのですかな」
 御住職の声が聞こえて僕は立ち止まった。
「私が。おそらくは、これからも」
 振り返らないようにしながら部長の答えを聞いていたけど、
「どちらであれ当院は、お待ちしております」
 じゃあどうして訊いたんだろうって、もちろん、言葉以外で知りたい事があったからだ。
 僕だけが入場券で入るホームは、無人駅なのにずいぶん広い。どうしてかってこの駅にしか残っていない、明治時代のレールとか鉄道会社の資料とかあって、展示スペースが設けられている。
 冷房の効いた待合室には、鬼神楽の写真が飾ってあった。去年とか一昨年とかじゃないだいぶ昔のものっぽいけど、窓枠の上は四方向全部埋めるみたいに並べてあって、知らない子供とかが見たら多分怖い。だけど、撮りたかった人がいてどうしても埋めたかったんだなって、それも否定とか出来ない気がする。
 神南備は首から本気のカメラをぶら下げたまま、展示された資料でも待合室でもなく、時刻表を見ていて、隣に近寄って眺めていると本当に、切なく見えるくらいにスッカスカだ。基本一時間に一本で、昼間はもっと少ない。
 顔は向けないまま手を握ったら、神南備も握り返してきた。
 夏休みに入っちゃうと、毎日顔を見て話を聞いていたのが一気に、なくなっちゃって、何か違うって物足りない感じがして、朝教室で顔を合わせる時間とか、おばあちゃんが寝に行った時間とかに、「おはよう」とか「おやすみ」とか短いメールを送っていた。
 迷惑そうならすぐにやめようと思っていたけど、神南備からも「おはよう」とか「おやすみ」とか、返ってきて嬉しくて、僕も神南備も、普段会って話す時とはちょっと違った感じの文面になっちゃってるけど、素直になれる、とか本音を出せた、とかじゃなくて、そりゃ顔は合わせてないしメールだし、普段と違ってそれで本当だから。

   合宿の間ちょっとでいいから考えといて

 ってメールを前の晩に送っていた。

   ここでずっと暮らすって
   多分楽しめなくなるから ちょっとで

 って送って、

   分かった

 って短いメールが返ってきた。
「そう簡単に口になんか出来ないんだけど」
「うん」
「必ず言うから」
「分かった」
 林さんと廣江さんは、展示ケースに張り付くみたいに資料を眺めていて、部長と幸さんは待合室で写真を見上げている。部長が僕達に気付いて、多分呼ぼうとしたけどやめた。


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