宗教を作り替えたい
はじめましての人は、
まずこちらをご覧下さい。
前から知ってる方はごきげんよう。
偏光です。
2023年12月2日夜明け前4時50分頃の意識。
(寝かせてくれよ。)
(ってかやっぱここまで書いちまわないと、
始末に終えねぇんだな。)
(文字数:約1600文字)
余談を先に
ところで言葉があふれている間、
同時に頭の奥ではずっと、
King Gnuのデビュー曲、
『Tokyo Rendez-vous』が流れていた。
「夜に紛れて貴方の元へ遊びに行くよ
眠らない街の
無意味な空騒ぎにはうんざりさ」
部分に引きずられたな多分。
(ってか何気に私の脳内再生力高い気がする。
記憶力とはまた別だけど。独自解釈もするから。)
ここから意識(ごめん。かなり不穏)
私はこの世のありとあらゆる全てを、
世にあふれている程度の薄っぺらな意味合いではなく、
本当の意味で愛している。
気持ちの上では一人一人を、
抱き締めあたためて回りたいのだが、
この身一つでは叶いようがないので、
全てを提供してやる。
この身ただ一つに受け取り切れるもの全てを。
行動は御前たち一人一人がやれ。
賞賛も御前たちがそれぞれに受けるが良い。
どのような所にでも、
どういった事物にでも、
美しさは存在する。
しかし、
他人から言い含められ、
押し付けられて理解できるものではない。
一人一人の眼で感覚で見出すものだ。
誰の眼も、
曇ってなどいなければ、
眠ってなどいない。
目が見えない者ですら、
時に視覚を有するだけの者以上に、
優れて見えている。
相当に以前から思い続けていたのだが、
他人様に「目覚めよ!」などと、
どの口が唱え出せるものか。
奇しくもナザレのイエス殿が、
私と似通った事を語っておられたようだが。
それは異なる機会に異なる文脈で説かれたものだと、
訳知り顔で侮る者もいるだろうが、
混用され誤解される可能性も加味して、
言葉は使うべきものだ。
異教徒が自分たちの聖典を、
引き合いに出したからといって、
驚き無礼と捉える方こそ、
了見が狭い。
どのような所にでも、
美しさは見出せるのと同様に、
醜さも見出せる。
なぜ自分たちばかりを賢い者のように、
思い込んでいられるのか。
「人は愚かなものだ」と、
わざわざ教えてくれたただ一人だけを、
崇め敬うのか。
それを聞かせてくれた者たちも、
彼らを崇める者たちも、
誰もが賢くはない事くらい、
大前提にしてしまえ。
とは言え私は御前たちをも愛してやる。
他人に銃口を向け引き金を引く者も、
他人の家に押し入り財産に食糧を奪う者も、
心の奥底では泣き喚いているのであれば、
その罪を許さないまでも愛してやる。
「何て事を言うのだ」と、
そしるタネでも見つけたように思うか?
「銃」や「家」が、
事物そのものだけを指しているとでも?
裏を返せば、
嬉々として奪う者だけは、
私は憎み切る所存だが、
覚悟は出来たか?
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