悲しい話をしようか
柳田國男氏の本を読み終えたあたりから、
ぼんやりと考え続けてきた事なんだが。
(文字数:約1300文字)
仕事を渡さない、
あるいは、
渡したとてその働きを認めない、
事にして、
働きに見合った報酬を渡さずとも、
内外に劣った者だと思わせれば、
自ずと消滅してくれるような、
立場に置かれる者が昔から、
一定数以上存在したわけだ。
集団で得た実りを分配する頭数は、
皆が納得し得る理由をもって、
一、二割ほど減らせた方がいい。
いつ飢饉が起こるかも分からない農村において、
それは集団に出来る第一の備えであった。
養うべき家族、とは、
血の繋がった親子間に限らない。
その地域の集落全体とされている場合に、
周囲より劣っている、とみなされた者の親は、
むしろそうした者を集落内に、
産み落とし存在させた責任を取らされる。
奉公口を見つけ他所へと追いやらねばならないし、
手っ取り早く寝ている間の呼吸を塞ぐ事もあった。
飢饉の際の切り捨て要員とされた者にとっては、
実は「集団を離れる」が正解だ。
正解、という表現はなるべく使いたくない私だが、
分け前を予定されていない存在にとって、
生き延びる手段はまず脱出から開始される。
私は何を言いたいか。
親や故郷など心底どうだっていい者は、
いつの時代にもある一定数以上存在したし、
何ら恥ではない。
「人は一人では生きられない」
といったおためごかしを大変によく聞くが、
「集団の幸せのためにいなくなれ」と、
涙ながらに繰り返し聞かされ続けた身には笑止。
たまに顔を見に帰郷する事すら、
心の奥底からの本音を言えば、
集落全体に不安を抱かせる迷惑でしかない。
「便りが無いのが良い便り」あるいは、
「他所で元気に暮らしていれば何より」に、
この上ない実感がこもっている。
集団の中の一、二割に属しなかった者には、
とても考えられない感覚だろうが、
存在くらいは認識してもらいたい。
あなた方が故郷の愛情に包まれ、
親を大切に思いながら、
暮らし続けて行けるための要員だったわけだから。
仕事を得られない事に、
報酬を得られない事は、
社会側の分配法則が単に非情、
というだけの話であり、
生き抜くための事柄全てを「仕事」と見なせば、
「働いていない」者など皆無に等しい。
むしろ人の働きに頼り続けていながら、
そこに気付かない者こそ「働いていない」と言える。
身体も頭も心もだ。
さはさりながら今現在の、
周囲を見渡せばこの国内も世界中も、
いつの間にやら私が脱け出せた集落のようではないか。
そう感じたからこそ本日ここにこの文章を残すのだが。
お前たちが日々憐み蔑んでいるムラ社会と、
精神性においてほとんど違いが無いぞと、
私は片頬だけで笑っている。
さぁ皆さん今後をどう動く。
かつてのやり方などもはや通用しない。
追い出せるような外側も存在しないぞ。
地獄は経験済みであり、
私は予測できている。
強いていうなら地獄をなるべく増やさないよう、
どうにか持っていく術に日々と人生を費やしている。
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