見出し画像

私の身近にある「讃岐富士」と昔偶然見た金毘羅山での高橋由一が繋がった本です。明治時代の日本を知る視点が増えました。


「讃岐富士」
地元で呼ばれている名前は「飯ノ山」
香川の山は、平野の中に可愛らしい「おにぎり」のような山がポコポコとある独特の地質、地形です。
私にとっては、いつも身近で親しみを感じる山です。

子供の頃は、家の周囲に田んぼが広がり、その向こうにこの「飯ノ山」があることで、裾野から山全体を綺麗に見ることができました。

そんな「○○富士」という呼び方は、日本中のあちこちの山であります。
私はその呼び方に何の疑問も感じたことはなく、ただ「日本で一番高い山への憧れみたいなものからそう呼ぶのかな」みたいな。
いや何も考えていませんでした。

でもこの「○○富士」という呼び方は、明治時代に意図的に付けられたもののようです。

遡るとやはり「日本風景論」という書物にぶつかる。
富士山を頂点に日本列島を統合的に認識するために重昂が各地の風景を序列化した〝証拠〟は以下に引用する一節からも明瞭である。

「名山の標準」である「我が富士山」を中心にして、各地の代表的な火山に富士の名称をつけるべきことを説いた部分は過激で、国境をはみ出してしまうほどだ。

『ミカドの肖像 (小学館文庫)』(猪瀬直樹 著)より

そして私のいつも見ている「飯ノ山」が「讃岐富士」と呼ばれるようになったのも、何とこの時なのです。

この文章の後に、この時代に日本の有名な山々に「富士」という名前が付けられた?というリストがあり、その中に「飯ノ山」をみつけたときは「そうなんだ!」とびっくりして声を上げてしまいました。



そして「ミカドの肖像」とあるように、肖像画を書いた高橋由一。
金毘羅山は、この画家の絵をいくつか所蔵していています。
昔偶然入った高橋由一の「特別展」で、それらの力強い油絵を見ることが出来ました。
この本を読み、私は改めて貴重な体験をしていたのだと思います。


そんな私の身近な記憶の画家が明治という時代の中で、どのような絵を描いていたのか。この本の中でも中心となる高橋由一が書いた明治天皇の肖像画がどのようなものであったのか。
明治という大きく社会が変化した時代に起きていたことの一端を見せてくれます。


p.524
明治天皇の肖像画はキヨソーネによってのみ描かれたのではない。明治五年、六年と二度にわたって写真師内田九一が明治天皇を撮影していることは触れたが、その写真を素材にして、明治天皇の肖像画を描いた日本人がいた。
『明治天皇紀』(第4巻)の明治十二年一月二十九日の項に、高橋由一に肖像画を描かせたという以下の記述がある。

『ミカドの肖像 (小学館文庫)』(猪瀬直樹 著)より

私は日本の歴史や文化に興味があります。
でも私が知りたいと思う「その時代を生きていた一般の人の意識、生活、社会をどのように見ていたのか」という記録にはなかなか出会えません。
専門化でもない一般の人が、その当時を知りたいと思ったとき、その時代の文献を読み解いて解説してくれる人が必要です。

今回この猪瀬直樹氏の本は、落合陽一氏の本の中で紹介されていました。
この猪瀬氏の本で私が驚いたのは、本当に丁寧な取材を長く行い、なかなか会えそうにない人たちに会って話を伺い、丁寧のその時代にあった事実を積み上げているということです。
そして膨大な過去の資料に当たっている。

私はこのような本を読みたかったけど、私が見ていた場所ではこの本のことを知ることができませんでした。

「ミカドの肖像」
江戸時代から明治にかけて、日本が大きく変わらざるを得なかったこの時代。
この本は今の日本を知るための一つの視点です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?