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「幸福」「ウェルビーイング」を「定義」されたら「息苦しい」ですよね。

「還暦オバサン」の私がなんとなく感じていた「違和感」を表現してくれていて、少し思ったことを記録しておきたくなったので書いてます。

「ウェルビーイング」という言葉。
最近よく聞くようになったのですが、そもそも私はこの言葉を今、多くの人がどのような意味合いで使っているのかは、解りません。
多分、使っている人それぞれイメージは違うのかも。

なので普通に私たちが使っている「幸福」という言葉を、ここで宇野さんが言ってるように「定義」してしまうと、どういうことが起きるのか・・・。

私の直感的な感覚は「息苦しい」です。

僕は人間の「幸福」というものを社会的なものとして共有すべきではない、と思う。苦痛を減らす、アンフェアなものを減らす、という価値は共有できる。しかし「……ではない」ではなく「……である」という「幸福」を社会の単位で共有するのは難しく、むしろ危険だというのが僕の結論なのだ。

宇野常寛

人々にとって「アンフェア」なものを減らすという価値は共有できても「幸福」を「・・・である」と社会の単位で共有されてしまうことの「息苦しさ」。

私は「死生観」というものを考えたりするのですが、これからの社会はこの「死生観」も多様であって欲しい、多様性を認め合う社会であって欲しいと考えたりしています。




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