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浪漫特急 §35 挑めフジヤマ

 「ニッコーヲミズシテケッコートイウナカレ」男は流暢とは言えない日本語で言った。流暢であったとしても主人公には理解できなかった。カタコトの日本語さえ勉強していなかった。

 「日光と結構が押韻しているんだ。日光は知っているね」

 主人公は小さくうなずいた。

 「日光は華麗な建築で有名な観光地だ。それを見ないでワンダフルと言うな、という日本の格言だ」

 この男、英陸軍の駐在武官リーズ大佐は、昨年冬、日本人に先駆けて初のフジヤマ冬季登山を成し遂げた。相談に訪れた主人公に対して、具体的な計画性のなさや無謀さににべもない返事をすると、こう続けた。

 「おまえさんも日光へ行くがいい。冬のフジヤマは眺めるだけで十分だろう。諦めたまえ」

 次の日の早朝、主人公は横浜駅にいた。世話になった大佐の手前、日光に行かざるを得なかった。汽車に乗り込み、ふと南側を見ると、窓越しに青白いフジヤマが見えた。
 「やめてくれ」主人公はカーテンを閉じた。無駄だった。フジヤマの誇り高き女王はカーテン越しに語り掛けてきた。「あなた、私を諦めるの。うふふ」

 フジヤマは故郷のテネシーにいたころからあこがれだ。信じられないほど対象的な双曲の稜線、冠雪が白く輝く山頂。単にあの島国で最も美しい天然記念物ではなく、この地球で最も美しいという日本人の意見に同意する。いつか必ず登る。そう誓っていた。

 大学に進むと、図書館には葛飾北斎の「富岳百景」コレクションがあった。モノクロームの版画だったが、なんど眺めたことだろうか。カラーの「富岳三十六景」を見にわざわざボストンまで出向いたこともある。


 日光では何も感動できなかった。日本人の見物客の群衆に紛れて一通り見たものの、ほとんど上の空だった。

 「見ざる、言わざる、聞かざるだって。僕の信条と正反対じゃないか」

 駅のホームで帰りの汽車を待つ間に、いても立ってもいられなくなった。

 「フジヤマに登るために日本へ来たんだ。どうして諦めることができようか」

 横浜に着くと、その足でリーズ大佐を再び訪ねた。

 
 「僕は諦めません」
 主人公は改めて熱く不退転の思いを語った。


 黙って聞いていた大佐が言った。
 「きみの情熱は分かったよ。だが、昨日も指摘した通り大きく三つの問題がある。まず、きみの計画、というかテーマのひとつは単独行だな。だが、それは幼稚だ。言ってみれば、樽に乗ってナイアガラの滝を下る、いや、落ちるようなレベルだ」


 まさしく、万一でも命が助かる可能性があるなら、やってみたい冒険ではないか。が、主人公は黙って聞いていた。

 「まあ、単独で登頂というのは、いいだろう。どうせガイドを雇うんだろうから。二番目の問題は、予定日には月明りがないことだ。私のときは満月の日を選んだ。冬の短い日の光だけでは十分ではない」

 星に願いを。主人公は思った。予定日とは主人公の二十三歳の誕生日である1月9日だ。満天の星空ぐらいのプレゼントはもらえるかもしれない。


 「そして三番目の、最大の問題は、きみは何も装備を持っていないことだ」


 その通り。放浪中の身なので、全財産がこの小さなナップザックに入っている。といっても、冬山登山の必需品の雪靴もピッケルもゴム長靴も毛布も入っていない。あるのは歯ブラシと髭剃りぐらいだ。

 大佐はしばらく黙ってこちらを見つめていた。主人公も見つめ返した。
 
 「私のを貸そう。おまえさんの相談とは、そういうことだろう」

 主人公は破顔するや、飛び上がって大佐に抱き付いた。アラブ人のように左右の頬をこすり合わせると、言った。

 「ありがとうございます。ご恩は一生忘れません」


 主人公の寄稿を掲載している「メンフィス・コマーシャル・アピール」紙から届いた原稿料の前払い五十ドルと、横浜に来て知り合った人々から集めた寄付とで、アイゼンだけは自分で買った。冬山では魔法の翼である。


 それから御殿場へ向かった。小さな村で食料調達には往生した。甘いパンに酸っぱいハムを挟んだ恐ろしく不味いサンドイッチと、二パイントのブランデーだけが手に入った。しかし、ガイドを探すのは、大勢の強力(ごうりき)がいるはずなのに、もっと至難だった。


 「冬の富士? おめえ死にてえのか。だれも登ったことがあるやつなんでいねえずら」
 「ダメダメ。おら死にたくねえ」

 「謝礼はたっぷり払いますよ、ほら」主人公は何枚か重ねた円札を見せた。

 強力たちの目は、少しも光らなかった。
 「いらね。おめも諦めろ。自殺行為だ」

 「冬のフジヤマにはまだ、英国人が二人登っただけなんですよ。日本人として初の名誉じゃないですか」

 「なあに言ってるだら。富士さー登るのは霊峰じゃんか。夏行けばいい、夏」

 強力たちには純粋登山という発想がないのだ。押し問答の末、ようやくカツという名の男が、ベースキャンプとなる太郎坊までなら荷役を引き受けてやろうと言ってくれた。報酬の半分は前金だという条件だった。

 「おめ、どうせそっから先は凍った急斜面だ。登れんめい」
 「そうかもしれません」
 「だっから前金だら」

 こうして主人公は、村人たちの好奇の目に見送られて、翌日の正午、村を出発した。


 深い雪を踏み分け踏み分け、日が暮れるころ、太郎坊に着いた。標高4000フィートである。吹きさらしの中に小屋があった。中に入って火を熾したが、まったく暖まらなかった。寒くてほとんど眠ることもできない。凍死するかもしれないと思った。午前四時になった。

 凍え死ぬことも、滑落して死ぬことも、同じだ。

 「カツさん。僕は行くよ」そう言って、リーズ大佐から借りた熊革のコートを脱ぎ捨て、ブランデーボトルから気付けの一杯を呷って、日本式の麦藁の雪履に魔法のスパイクを装着すると、小屋から出た。カツさんはうなずいた。たぶん、もう二度と会えないと‏思っているようだった。主人公が帰って来なければ、報酬の残り六円は未払いのままになる。

 見上げると見事な満天の星空だった。誕生日プレゼントの願いは通じたのだ。風もなかった。夜明け前の薄明りに山頂がぼんやりと見えている。草木はまったくない。まるで巨大な白砂糖のコーンのようだ。ゾクゾクしていた。これが冒険のクライマックスだ。センセーショナルな人生の栄光のフィナーレだ。この日のために、だれの忠告にも従わず、あらゆる危険に身をさらしてきたのだ。ここからが試練だ。

 誕生日のお祝いに、冬季単独登山を許したことのないフジヤマの長年の伝統を粉々に砕くチャンスなのだ。敵を睨みつけた。向こうも睨み返してきた。

 「愚か者よ」フジヤマが言った。
 「お前は、これまですべての挑戦者が命を失った試みをなそうとしている。月を掴むがよい。私を征服すると同じほど容易であろう」

 「誘ってきたのはお前じゃないかっ」

 突然、怖くなってひざがガタガタと震え始めた。

 そのとき、ダントンの甲走ったフランス語の檄が私の頭の中に鳴り響いた。

    L'audace, encore de l'audace, toujours de l'audace.

 「蛮勇が、さらなる蛮勇が、たゆまぬ蛮勇が必要なのだ」


 分別などくたばっちまえ。前進あるのみ。




脚注
※ダントン:フランス革命の時代の政治家。革命干渉戦争でプロイセンに敗れたとき、文中の演説を行って国民を鼓舞した。

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