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第10夜 釈迦堂タイムスリップ

 浄妙寺そばのちいさな沖縄料理屋から三線の音に続いて数名の拍手が聞こえてくる。
「もうそんなに褒められちゃ、もういっぱい飲んじゃおうかな」
「マアさん、もうそんくらいにしておいたほうがいいんじゃないか?」「いいや、もういっぱい頂戴」
 常連の正男は泡盛を飲みながら手習いの三線をここで披露するのが定年後の楽しみになっていた。レパートリーは少ないが、お客さんのリクエストは大体決まっているので都度応えることができた。島唄、涙そうそう、てぃんさぐの花、安里屋ユンタ…、歌を披露したあとはグラスを口に運んだ後、弦を爪弾くだけで店内空間はすっかり沖縄にいるかのようになるなので、店長も正男の来店は歓迎だった。
「マアさん今日はいつもより多いよぉ。飲み過ぎは良くないさぁ」
「なあに、何十年も飲んでるんだから限界は知ってるよぉ。こんなに美味いスク豆腐出されたら何杯も行っちゃうじゃないか」
「それは俺のせいかよ。もうひとつとっておきのやつ出したら確実に朝まで飲んじゃうだろうな」
「とっておきのってなんだよ?」
正男は”十九の春”の前奏を繰り返し店長を問い詰める。
「その壊れたジュークボックスみたいなのはやめてくれよ。お客さんの迷惑だろ」
「じゃあ教えろ!」
「しょうがねえなぁ…、これだよ」
 正男はすでに店内のテレビに何の文字が映ってるかも読めないくらい酔いがまわっていが、これだけはシルエットだけでわかった。イラブーだ。正式名称はエラブウミヘビ。真っ黒なウミヘビをとぐろを巻いたまま乾燥させてある。宮廷が滋養強壮のため食した高級品だ。
「おお〜っ、来たねぇイラブちゃん! まさか鎌倉でありつけるとは思ってなかった。早く食わせろよ!」
「そう思って、1匹汁にしておいたさぁ」
 店長が鍋の蓋を開けると見た目からは全然想像つかない芳しい香りが店中に広がった。正男は最初によそわれた椀を店内2つのテーブル客に見せて回ると、
「うわ〜、やめてやめて」
「あなた、精がつくらしいから食べてみたら」
「何かブランド品の財布みたいな皮ねぇ」
まちまちの反応を正男は楽しんでから一口すすると、
「ん〜美味い、泡盛もう一杯!」
その後はイラブー汁祭りの如き盛り上がりで、のれんを仕舞ってからも三線と歌声は夜更けまで続いた。

「ん?」
 正男はすっかり寝てしまっていた。店を出たのは覚えているが、目を覚ましたところは自宅でも路上でもなく全くの見覚えのない土地のようだ。酔いのせいであまり目も開かないが、なんとかこじ開けた薄目にもすでに夜は明けようとしていることがわかる。体の節々が痛く動かせないので、しばらくはこうしていようと思った。
「限界を超えちゃったなぁ。イラブーのせいだ。あんな見てくれで、あんな香りで、あんな旨さで、誰だって止まんねえよぉ。まったくもう。…しかしなんだよこの匂いは。あまくて、ちょっとニッキみたいな…。さっきまで沖縄にいたのに、なんだか今度は外国にいるみてえだ」
朦朧とする中でなんとかこの状況を抜け出すことを考えようとしたが、頭も働かない。開かない目をどうにかもう少し開き頭が動く範囲で少しだけ横を見てみる。そこには明けはじめの夜空を不思議な形で切り取る何かがある。
「あの尖りは何だ?2つの三角が空に伸びてやがる。あんなもんあったか?」
正男はもう少し頑張って目を開いてみると、それが屋根であることがわかった。しかし正男の知る限りこんな円錐形の屋根が2つ続いてる景色は見たことがない。
「たしか、イタリアの田舎にこんなのがあったな。ベロベロみたいな名前だったが、そんなところに居るわけもねえし…」
ニッキの香りに新たにキャラメルのような香りも重なり始める。
「こんな景色にこの香り、どう考えても外国じゃないのか」
考えようとするほどに頭痛が起こり酔いともに意識は遠のいていった。「んなわけねえだろ。一晩でイタリアに行っちまうなんて」
「いや、間違いねえ。俺はアルベロベッロに行ったんだ。間違いない、あの屋根の形。そりゃ調べたよ、あの屋根は何だったっけって。そしたらイタリアだって。俺だって不思議だよ。俺はそこでアップルタルトを食ったんだ。ニッキが効いてて、表面がキャラメルでカリッとなってて美味いんだ」
「で、目を覚ましたら家の布団で寝てたと…」
「母ちゃんは怒ってたがな」
「そりゃそうだろうよ。朝帰りしてそんなわけのわからん事言うんじゃ」
「嘘も大概にしろとな。まあ最初に目覚めたのは鎌倉警察らしくて、母ちゃんが迎えに来て布団に寝かせてくれたんだな」
「どうやって警察に行ったんだ?」
「それは覚えてないねぇ」
 店長との会話も今日は途絶えがちで、奥のテーブルの女の子の二人客から話が聞こえてくる。
「あそこのケーキ、すごく美味しいよね。今の季節は桃なんだけど、やっぱ年中やってる定番のアップルタルトが最高」
二人のオヤジはその言葉に強烈に反応した。
「そうそう、シナモンが効いてて大人の味」
正男が店長に向かって首を傾げる。
「マアさん、シナモンってニッキのことだよ」
正男は大きくうなずく。
「でもさぁ、あの空間もいいよね。なんか外国にいるみたいな…、あの感じどの国なのかなあ?」
「何いってんのぉ、あれはアルベロベッロじゃない、イタリアの!」
そこまで聞くと正男は堪らなくカウンターからくるりと振り返り、
「そのケーキ屋さんってどこにあるの?」
二人の女の子は突然のことで身構えつつも
「大町の奥の方です」
「メインの道から小道を入っていったところにある、隠れ家みたいなお店なんです」
正男はスマホで地図を出して場所を指ささせた。店長も興味津々に調理場から出てきて画面を覗く。指さされたところを見てオヤジふたりは小さくうなずきながら、
「マアさん、あんたよくあんな酔っぱらいで釈迦堂くぐったね」
「確かに、全身あちこち痛くてさ。あのフェンスをどうにか乗り越えたんだな」
女の子は鎌倉の子なのかよく知っており、
「え、釈迦堂の切通ってずっと昔に通れなくなったんでしょ?」
「私がちっちゃい頃は通れてたよ。確かにこのお店からあの切通を抜ければあのケーキ屋さんまで早いよね」
店長は半ば呆れ語で
「マアさん、今日は飲んじゃだめだよ」
そう言いながら調理場に戻っていく。
「今思い出した、横になってあのニッキの匂い嗅いでたら顔の横を大きな黒いヘビが這っていって気を失ったんだった」

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