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第50夜 ツァイスの伏線

「光のない世界は写るのか? 
露光もスピードも及ばない全くの闇。
それを取り込むことは可能か? 
ただ闇に向かってシャッターを切れば
それは闇が写るだけのはず。
では闇には何もないのか?
光がないだけなら
ライトを照らせば全ては浮かび上がる。
そうではない、例えば完全に塞いだブラックボックスの中にもうひとつ同じものを置きその中でシャッターを切る。
何もないものは写らない。
光が無ければそもそも写せない。
だが厳密に物理学に則れば、有る。
人間の目には見えないだけなのである。
そして未だそれを超えていない…」
 中澤佐喜雄は物理的常識の壁に挑んでいた。
闇の撮影は意識の提示と同じだ。
解明が追いつかない意識という存在は宇宙の膨張に連れられるように果てしなく近づくことができない。
闇を写す。
シナプスと眼球水晶体の合わせ技でもなしえないことを工業製品で行なおうとしているのだ。
それでも中澤は希望を失ってはいなかった。
水晶体は変えようはないがレンズならいくらでも試すことはできる
 軍事目的ではないのだから被写体側からの作用は考慮しなくていい。ただ闇を写す。
赤外線などはフラッシュと同じ発想だ。
そうではなくただただレンズが闇を写し取らなくてはいけない
 試作が繰り返される。
鳥目のメカニズム、深海生物のセンサー…
やがて意外な結論に行き着く
1935年製ツァイスのテッサー。
100年前ミスター スマクラが初めてレンズにコーティングを施した際、このことを想定していたのかは知りようがないが、確かにそれにより闇は写った。
 そこは漆黒ではなかった。
いやその撮影物を見ているのが相変わらず私の水晶体だからか、シナプスがルーティンで反応したのかそれはなんとも言いようがないが、
そこには山頂から見る夜空のごとく無数の星が見える。それらの星は何か光の線のようなものでつながり合っている。
 私は本体のモードを動画に切り替え試す。先ほどの静止画はシャッター速度を遅めにしたからか、その線は全てつながり合っていたが、動画ではあちらこちらで繋がっては離れを繰り返している。また星のように見えるものは360度の方向に向きを変えるようで、ある角度ではジェリービーンズのように細長いものであることが見てとれた。
「これは素粒子? いや、さすがにプランクサイズがこの50mmレンズで写るはずはない。では何だ?」
 自身の知識領域にはないことを目の当たりにし、中澤は呆然と瞳を閉じる。15秒ほどすると瞼の裏のスクリーンに先ほどの画像が浮かび上がった。残像だろうと放っておいたがそれは続いた。瞳を閉じたが厳密に言えば瞼を閉じたが眼球はそのまま瞼でシャットアウトされただけだ。瞼の裏が見えているのか? いや視覚も焦点距離に合わせ水晶体を動かしているから接しているものはさすがに無理なはずだ。つまり視覚ではなく脳が闇の姿を思考させたわけだ。ではさきほどレンズを通して写った事はどう説明する? 脳を持つ? まさか。意識を呼ぶ? まさか。
 写ったものが何であるにせよ、この1935年のテッサーだけがこれを写し取った。

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