「何も悪いことしてないんだけどな」の重さ

能登半島の地震のインタビューを受けて「何も悪いことしてないんだけどな」と答えていた男性の映像を見て、人生に儚さみたいなものと真摯に向き合えた気がする。

最近、ネットばかりを使っていると、「有能な人はこうする」「馬鹿な人はこういう行動をする」「これをやる人は嫌われる」「年収上げるにはこうしたほうがいい」とか、くだらない記事が溢れている。

だが、良いことをしようが悪いことをしようが、地震が来たら誰それ構わず亡くなってしまう。結局、無に帰すというか、今までの人生で積み上げてきたものが一瞬で奪われるような感覚に陥る。いくら先のことを考えても、私達には今を一生懸命生きるしかできない。

若い頃に一生懸命努力して建てた家が被害を受けて、もう80歳だからどうしようもない。みたいな人も居た。命が助かったなら良かったとは言いたいものの、その人にとって努力した証だったり人生の象徴的なものが奪われて晩年を迎えるというのも酷だと思う。

正月にたまたま帰省していた人達もいるだろうし、たまたまクリスマスに帰ったから正月は帰らなかった、みたいな人もいただろう。そんな善悪関係ないちょっとした事で、人生が大きく変わってしまう。

人生において死を最大の不幸と考える人もいれば、そう考えない人もいる。すごく若くして可能性がある人が亡くなってしまうのは悲しいが、ある程度の年齢になって、自分のやりたいことやって、あとはもう現状維持みたいな感じになってしまうと、まぁ別にいつ死んでもいいかなと言う人もいる。

家族がいる人の死と独身で身寄りのない人の死は、意味が違うだろうし、不慮の事故で亡くなる人と病気でなんとなく先が見えている人の死も違う気がする。

よく自分の命なんだから、人に迷惑をかけなければ好き勝手して良い。という人がいる。個人的にはそれは間違っているという結論に辿り着いた。そもそも自分ひとりで自分の命をコントロールできているわけではない。

私達の命は先祖代々受け継がれてきたものだろうし、富士山が噴火しようが、また家を建て、畑を耕し、生きてきた人達が希望を捨てなかったという意味でもある。

今の自分に置き換えてみると、自分は自分が生きることに必死だし、人間関係も昔ほど多くない。世間の流れとしても、嫌な人とは無理に付き合わなくて良いとか、自分のことを一番褒めてあげて自己肯定感を上げよう。みたいな感じになっている。

能登の地震が起こった時、ツイッターに変な投稿が増えた。それは、「家が倒壊して下敷きになって動けません。住所◯◯市ー何丁目ー33-2」みたいなものである。

冷静に考えてみれば、そんなツイッターに投稿する暇があるなら、警察に電話しろ。と言ってやりたいし、ツイッターを見て助けに行けるくらいの距離に住んでいる人なら、おそらく倒壊した家の下敷きになっている人物と同じような状況になっているか、急いでその場所から避難しているかどちらかだと思う。

挙句の果てに、ツイッターのアカウントが最近作られたものだったり、#大谷翔平 とかくだらないタグが着いていたりする。予想外だったのは、「がんばってください!必ず助けに来てくれる人がいます!」とか、莫大な数の応援メッセージが届いていたことである。

数時間後にはその投稿は削除されていたが、いろんな著名人がリツイートしていたりもした。なんというか、わたしたちの生きる日常には、とんでもないクズが潜んでいて、社会で生活している。

細かいことはわからないが、そういう人間だから働かずに家でそんな暇つぶしをしているのかもしれない。ただ、働いていないからといって、別に精神的にクズになり、犯罪行為に走るわけでもない。

能登地震の被災者には、良い人も悪い人もいたんだろうが、正月に一家団欒で楽しく過ごしていた人達がほとんどだったに違いない。そういう人達の生き死にをだしにして、小銭稼ぎに走ろうとする人もいる。

「悪いことをするとバチが当たる」と小さい頃から日本人なら教えられてきた。それがわからない人はおそらく幼稚園で学ぶべきことを大人になっても学べていない。

真面目でコツコツの人がどうしても報われない運命を辿っているような印象を受ける。実際の所、人生をすべて観察することはできないので、そんなことはないかもしれない。死が最大の不幸という解釈も間違っているのかもしれない。ただ、悪さをする人もいれば、何も悪いことをしていないのに不幸な目に遭う人も居て、何のために自分たちは頑張って生きてるんだろうなと考えてしまう。

別に自分がどうこうというわけではない。地震が何回起こっても先人たちが希望を捨てずに、日本の建物の技術や防災、インフラの技術を世界一に作り上げた。先人たちの死を無駄にしないと願った人達がきっと、行動を起こして国が発展してきたのだと思う。

なんとなく、現代ではそういう思いも減ってきている気がする。中にはいるんだろうし、そういう人達をバカにしたり潰そうとする人もいる。自衛隊にいた五ノ井里奈さんも、東日本大震災の自衛隊の様子を見て、入隊を希望したと語っていた。

小学生の時に決意し、人生をそこまで持っていったのだから、文字通り人生をかけて歩んできた道に思える。それがあのような結末を迎えることになる。つくづく多くの人から必要とされるべき人間こそが、周りの環境に潰されてしまう感覚に陥る。

もし神様がいるなら、なぜ神様はこんなことをするんだろうか。人間が困難を与えられても、それはその人が乗り越えられるから神が与えている。的な格言もある。

困難を具体的に何を想定するかで意見は違うのかもしれないが、私もそう思うことにしている。それでも、結局は病気だったり、事故だったり、それで亡くなってしまう人は現実としている。

自分軸ではなく、周りになにかしてあげたいと思う性格なだけで、現代ではすごく希少性の高い人間かもしれない。自分なんか自分のことで精一杯どころか、自立もできていない。人から認められることもなく、自分も認めていない。

人間は平等じゃないとはいうものの、未来がどうなるかわからないというのは、平等と言える。善人でも悪人でも、結局同じで、誰がどこでどうなるかは、誰にもわからない。

すごくいい人はすぐ死ぬし、酒タバコで借金作るまでの依存症になっても長寿になる人もいる。長く生きたから幸せとも限らないだろうし、すぐ死んだから不幸というわけでもない。

人生の捉え方というのは、実に複雑で、ただ金を稼げば良いというものでもないだろうし、人との繋がりだけで、なぜか生きられている人もいる。人の助けを借りてはいけないというもんでもないし、人間というのは、本来助け合って生きていくもの。という当たり前のことを震災は教えてくれてるんじゃないか。と変な解釈をするようになってきた。

もし、宇宙という大きな水槽に、地球を含む太陽系を神様が気まぐれで作ったとしたら、地球がどのようになることが、神の理想なんだろうか。その理想に辿り着くまで、何回も地震や災害や異常気象で、私達は一斉に無に帰すのかもしれない。

地球ができて40億年のうちの100年あるかないかの人生を、こんなにもあーでもない、こーでもないと考えている人間というのは、本当にしょーもない。私なんか、どれが良い仕事なのかを一生かけて調べて、何もできずに生涯を終える可能性さえある。

意味を見出したいとは思うものの、自分の人生に何も価値など無い。悲しいくらいにただの一般人で、地面のアリと何も変わらない。ただの一つの地球の構成要素でしかない。

そう考えると、いろいろ悩むのもバカバカしくなる。


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