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新しき言葉はすなわち新しき生涯なり:『物語る人々のための修辞法』 始めます

こんにちは!

こんにちは世界です、こんにちは。

えっと、遅筆ながら創作のほう、新作を準備中です…ヒントは…ヒントは…だめ、まだ練ってます、しかしながら読み慣れた人にこそ「なんだこれは?!」と思っていただきたい。との初志貫徹を目指し、鋭意制作中です、もうしばらく、お待ちください…。

さて、おかげさまでご好評いただいております「人物造形のヒント」シリーズ(2020.4.5.8:57時点でシリーズ10記事の計4947view236スキ、悩み募集記事は623viewで、は500viewを超えました、ありがとうございます、これからも、がんばります!)、自分的にはなんとなく一服感あり…あ、いえ、人物造形についてはまだテーマありますよね? マイペースにぽつぽつ投稿しようと思っています(ご感想、お悩み、リクエストなど、まだまだ受付中ですので、どうぞコメントくださいね!)。今後ともどうぞ、よろしくおつきあいください。

で、このあたりでもう一本、『春を謳う鯨』完結時にシリーズ化を予定してました修辞法に関するエッセイ集を、新学期的に(気持ちです。実践のほうは、のんびりと…)立ち上げてみることにします!

YES…実は、コンニチワールドとレトリックは、切っても切れない仲。コンニチワールドの読み応えは人物設計や表象利用だけでなく、レトリックによる読みの効果によっても支えられているのですね。たぶん。きっと。

どうでしょう、書き手の皆さんは「レトリック」を意識したこと、ありますか? 

まあ、ないですよね。

そうなんです、書き手さんって、書くの好きで書くの得意なかた多いんですね、で、書くの好きで書くの得意だとこれ、そこそこフィーリングでいけてしまい、あまり意識しないんですよねー…。

とはいえ、気になってはいる…はず。このシリーズでは私、そんな書き手の皆さんと、レトリックの勉強をしていこう!というコンセプトでもってコツコツ、チリツモで、レトリックによる文学的演出にフォーカスしたエッセイをしたためてゆこうと思います。レトリックについては私も勉強中の身でして、あんまり構成とかには拘らず、考えや経験をまとめる作業になってしまうかも…勉強のライブ観戦?のような気持ちでひんやり、見守っていただけますと、幸いです。

ははあ。しかし、どうしていま?

ね。修辞法って皆さん、高校のあの国語便覧以来、考えたことがないと思われます。文が並んでて、選択肢から修辞法を選んで当て込んでいくテストとか。でも…その修辞法の作品全体への効果なんかには、なかなか踏み込んでなかったと思いますし…国語便覧を思い出してください…物語に対する接し方って、WEB・ゲーム媒体の登場やアニメーションの洗練・普及で、国語便覧のあの偉人たちからずいぶん、変わってきてます。

いま、日本語で表現するとはどういうことか。

いま、日本語にはなにが表現できるのか。

大上段かもしれませんが、たまにはそんな構えかた、したいじゃないですか、書き手としては。ね…? 佐藤信夫もこんな風に書いています:

[…]昨世紀に消滅した[…]伝統レトリックのなかには、長いあいだほとんど気づかれることもなかった、別の重要な有効性がひそんでいたように思われるのだ。言語表現に《説得力》と《魅力》を与える技術という、レトリック自身がかかげていた、そして世間でもそういうものとし見なしていた役わりとはかなりおもむきのちがう、別の意義、それは《発見的認識の造形》とでも呼ぶのがふさわしい機能である。その役わりは伝統レトリック自身がはっきり自覚していたものではないから、むしろ古いレトリックのなかに私たちがこれから自分で読み取るべき問題なのだ。
(佐藤信夫『レトリック認識』「はじめに 認識のかたちとしてのレトリックの《あや》」)

言語表現は、認識能力への挑戦でもある…「文学だからできる」認識に、私は挑戦していきたい。です。

しつこいようですが、ええとその、実践のほうは肩肘張らずに、風任せに話題を選んで、気楽に進めさせてください…。いちおう話題の候補はあって、順不同、以下になります!

比喩(直喩、隠喩、換喩、提喩、諷喩)
擬態法
擬人法
反復法
反照法
反語
対句
省略法
緩叙法
漸層法
対照法
敷衍
パロディ
畳語法
疑惑法
誇張法
列挙法・列叙法
折句
時制
撞着語法
頓降法
黙説
冗語法

おぉー、壮観、見ただけで試してみたくなります…。

増えてきたら目次ページをリリース予定。なかでも気になるという話題があるかた、どうぞこちらの記事のコメント欄で ↓↓↓ お知らせください!


では…序文らしからぬ、この不器用な序文の最後に、受験勉強以来の長きにわたり私の筆を支えてくれたふたつの序文、島崎藤村と紀貫之のこの言葉を、華として、添えさせていただきます:

 遂に、新しき詩歌の時は來りぬ。
 そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いづれも明光と新聲と空想とに醉へるがごとくなりき。
 うらわかき想像は長き眠りより覺めて、民俗の言葉を飾れり。
 傳説はふたゝびよみがへりぬ。自然はふたゝび新しき色を帶びぬ。
(…)
 誰か舊き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。生命は力なり。力は聲なり。聲は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。
(藤村詩抄 自序)
やまと歌は人の心を種として
よろづの言の葉とぞなれりける
世の中にある人 事 業しげきものなれば
心に思ふことを見るもの聞くものにつけて 言ひいだせるなり
花に鳴くうぐひす 水に住むかはづの声を聞けば
生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける

力をも入れずして天地を動かし
目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ
男女のなかをもやはらげ
猛きもののふの心をもなぐさむるは
歌なり

(古今和歌集 仮名序)

私たちが聞き、話し、書き、読んでいるこれは、日本語です。私の言語であり、あなたの言語であり、私たちの言語ですが、誰のものでもない。私はそれを「自分のもの」にしない限り、「私の」言語とは呼び得ないのであり、そして、…そんな日が来るとも、思えない。私にできることはただ、後ろめたさとともにこれを「私の言語」と仮に呼び、ただただ、学び続け、書き続けることだけです。

日本語は、私にとっていつも、新しい。

まるで新しい人生のように、新しいです。

きっとあまり、見栄えのするシリーズにはならないでしょう、間違う時も、立ち止まる時も、あるかもしれませんし、私自身、なにが起こるか、はっきりとわかっていません…。なにかが起こることを期待して、しかし、踏み出してみようと思います。

よろしくお願いします。

物語る人々のための修辞法、始めます。



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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。