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春を謳う鯨 ㉗

◆◇◇◇ ㉖ ◇◇◇◆

鈴香が外へ出てエレベーターホールへ向かおうとすると、背中から、楢崎くんが鍵をかける音が聞こえてきた。鈴香は時計を見て、ツイートを確認しようとしたけれど、ログインしている最中にエレベーターが来て、電波が切れてしまった。

1階まで、乗ってくる人はいなかった。

鈴香は加速を圧力で感じながら、エレベーターが1階につくのを、ぐったりした気分で、待った。

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鈴香は新宿で、真っ白な花ばかりを集めた大きめのブーケと、マカロンの詰め合わせを買って、下りの中央線に乗った。

色とりどりのマカロンが可愛らしく並ぶショーケースを眺めて、色や味のあわせかたに思いを巡らせた。自分も光合成できそうなくらいに、青くて甘い匂いを吸い込みながら、繊細な花弁に目を凝らして、一本ずつ、選んでいった。

鈴香は選ぶひとつひとつに重ねて、ミナガワを思った。おとぎの国のお姫様のそれのように愛らしい品々が詰まった、ミナガワのメイクボックスを思った。ミナガワの体の瑞々しい手ざわりを、ミナガワの、歓びに潤んだ瞳の艶めきを、思った。テマリソウが好きだと言った鈴香の頰を撫でて、私も好きだよ、と囁いたミナガワの微笑みを思い出して、ブーケには、テマリソウを入れた。朝の出来事は忘れかけの悪夢のように、アウトラインだけを機械的に残して、ぐっと遠のいて…いまは、予定がまだ始まらない、土曜日の朝の穏やかな解放感と、旅に出て最初の角を曲がった時のような、静かな高揚感が、鈴香を包んでいた。

結婚の話は、佐竹さんには、しやすかった。最近どう? と訊かれて、婚約指輪を買ったことを話して、ああ、そんな頃合いかぁ、と佐竹さんが呟いて、終わりだった。友人たちには、指輪が届いたら写真と一緒に教えるつもりでいて、会社にはたぶん、入籍の少し、前くらい…。その先のことは、状況が変わってみないと、はっきりとは、わからない。楢崎くんからは、鈴香自身がどういうライフコースを取りたいかを、きちんと考えたうえで会社でも、きちんと、立ち回っておくように言われてはいて、鈴香は別に、それには、反対していない…。

ミナガワは…?

「鈴香が行ってしまうって決めたら、どんなに追いすがっても、どんなに引き止めても、もうだめなんだろうなって、思うよ」…。

そうだ…「友達」の時はそんなふうに思わなかったのに、ミナガワと「別れる」かもしれないという考えが思い浮かぶようになった、という話をして、それで、そんな話になったのだ。ミナガワが別れてきた…たぶん、たくさんの…恋人たちみたいに、「別れる」かもしれないという、話を、して…ミナガワは、びっくりさせないでなにそれ、と、言った。いつかはそうなるかもしれないよ、でも、考えたくないな、と…。

ミナガワは、考えたくない。

「いつかはそうなるかもしれないよ」。鈴香はまだ、迷っていた。結婚のことは、言わないでおくことも、できるかもしれない、言うほうが誠実なんだろうか、それとも、言わないほうが誠実なんだろうか?

ばっさり切ってくるよ。

不意に、楢崎くんの言葉を思い出して、鈴香は内心、苦笑した。鈴香と楢崎くんの違うところは、そこで傷つくか、傷つかないかだ。鈴香は、傷つかない。たとえ楢崎くんがいま、別れを切り出しても…鈴香の時間が戻らないという意味で、鈴香の人生は傷つくかもしれないけれど、それでも鈴香の心は傷つかなくて、それが、楢崎くんと鈴香の、一番の違いだった。楢崎くんは時々、妙に感傷的で未練がましいところがあると、鈴香は思っていた。日頃は冷静を気取って、柔らかい心をぐちゃぐちゃに潰すようなことばかり言っている癖に、ふと、子どもみたいに傷つきやすい、純朴なところを見せることがあって、鈴香はそういえば、こんなふうにたまに、楢崎くんをまだ、男の子なんだなと、思うときがあるのだった。人の気持ちなんだから、そんなのは、仕方がないのに…。

いまのままなら、飽きようがない。ミナガワは初めから、叶わないからこそ安心して、恋に落ちている。

都合のいい、恋…鈴香は不安なわけでも、悲しんでいるわけでも、悩んでいるわけでもない。鈴香は、見ているだけだ。ただ、見えてきた事実を…鈴香が、停止ボタンを押す役を任されているのだということ…その、事実、目の前にあるそのボタンを、鈴香はぼんやりと、何もせずに、何も考えずに、ただ、眺めていた。

ミナガワに、楢崎くんと結婚すると言ったら…? わからない。けれど、もし、鈴香が楢崎くんと別れて、ミナガワと…。

鈴香が楢崎くんと別れたら、ミナガワの恋は終わる。

鈴香はミナガワの、幸せそうな照れ笑いを思い浮かべて…それから、楢崎くんの、不機嫌な沈黙を思い浮かべた。

ミナガワのそんな顔は、鈴香は見たくない。

鈴香にとっても、結局のところそれが、答えなのだった。楢崎くんが鈴香しかいないと言った、その意味は、鈴香にもなんとなく、分かっているつもりだった。鈴香と楢崎くんが一緒にいるのは、…少しは、そういう気持ちはあるだろうけれど…互いに幸せを願うからではないのだ。幸せでない時にも、一緒にいられるかどうかが、鈴香と楢崎くんを同じ場所に引き止めている。相手が幸せでなくても、自分が幸せでなくても、それでも一緒に、合理的に、余儀がないのでなく、きちんと検討して選択した生活を、少なくともそれ以上は不幸にならずに、続けていけるとしたら…。

「病める時も、健やかなる時も」。

鈴香と楢崎くんは、ミナガワがいる世界よりも、ずっとずっと深くて暗いところで繋がっていて、もう、離れられない。それは…愛し合っているからとか、想い合っているからとかいうよりはむしろ、手を離せばお互いに、危険だからだ。

鈴香と楢崎くんの世界は、ひとりでいるには、あまりに暗くて、深い。

そして…そんな暗さのかけらもない眩しい恋で、胸をいっぱいにしたミナガワの、いまだけ、鈴香に向けられている、美しい笑顔…。

鈴香は…鈴香は「恋愛」は、男の子とするのが「普通」で…だから、男性で、ミナガワみたいに鈴香を好きで、ミナガワみたいに鈴香が好きだと思う、そんな人がいま、現れていたら、と思ったりもする。

けれどそこでも、答えは、ひとつだ。

ミナガワには、恋をしていてほしい。

鈴香は、ときおり車窓に映る自分の、手元に目を止めた。鈴香の姿は光の加減で透き通りながらも、かろうじて見分けられた。顔は、翳って見えずに、花の白さと、菓子袋の淡い緑だけが、浮き上がるように、流れ行く風景に重なって、それだけ止まって、映っていた。幽霊というのはもしかしたら、こんな感じに見えるのかもしれないと、鈴香は思った。



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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。