砂漠、薔薇、硝子、楽園、 (11)
feat.松尾友雪 》》》詳細 序文
》》》10.
「とんかつ屋は正直、意外だな。僕は…君のことしか、調べなかったから」
>11.イヅル_
雨咲イヅルは目を閉じて、また開いた。
4度目の0.5秒を目指して、イヅルはゆっくりと、3度瞬く。
4度目に0.5秒、もうひとつの、時間…。
エレベーターが開く。開く扉の向こうにいくつか、人影が見える。
生きた人間のそれではないことは、すぐにわかる。
開いた口に鉄杭を打ち込まれて、昆虫標本のように壁に留められている。首の伸びきった、男たちの死体…。
「シベリア・セキュリティ」の粛清であることを示す、メッセージだ。
メッセージ、だった。
もう50年以上も前の、野蛮な時代の話のはずだ。
ゆっくりと、3度、瞬く。4度目に0.5秒…エレベーターの扉がそのまま、閉まる。
1、2、3、…。
どこへ行く? ここは…。
「糸」が切れた。
「引き」すぎたな…。
切れると、しばらくは繋がらない。イヅルは横向きから仰向けになって、天窓から傾きかけた木漏れ日の射す、「プラネタリウム」の丸天井を眺めた。
朝は仁綺がいたような気がする。首筋に、仁綺の唇を感じたのは、けれども、どれほど前だったか…階下に降りて行く仁綺の背中を見て、鍵を閉めた。それからずっと、イヅルは仁綺ふうに言えば、「色々なことを考えて」…。
消火栓に、消防局のマークがあった。日本の、35階建てのビルの、14階であること…床に花瓶の破片と生花が散っていた…廃墟ではない…エレベーターの識別番号の下6桁は、960278…11桁の、残りは角度で、瞬時には見えなかった。
《ヂェードゥシカ》の逆鱗に触れる人間が現れる。
それは「その」イヅルの、想像…では、ない。「その」イヅルが見ているのは、「この」イヅルが既に「知って」いる…けれども自覚していない…「確実に起こる未来」だからだ。男たちは、イヅルがなんらかの形で見たことのある人間だ。
確実に。親しくはない、しかしどこかで見た、誰かに違いなかった。誰だ…?
「その」イヅルの、「その」風景に繋がるものを、イヅルは既に、知っているのだ。ただ…自分が知っているということを、イヅルはまだ、知らない…。
「その」イヅルに、イヅルは会ったことはなかった。「その」イヅルは、イヅルから隠れてイヅルの宮殿の奥深くに棲んでいて、しかも、イヅルの宮殿からは一歩も、出ない。宮殿に戻ったイヅルが、出るときには見かけなかった糸端を見つけ、不審に思って拾うと…イヅルの視界は、確実な未来を断片的に、夢見るように生きる、「その」イヅルのそれと、4度目の瞬きのあいだの0.5秒間だけ、繋がるのだった。
どうして、お前は出てこない?
どうして、お前が、出てこない?
イヅルはまた横向きになって、弾き慣れた曲を弾くピアニストを思いながら、ベッドマットから続く床の木目を、屋根裏部屋の扉口まで、目で追った。
どうして?
何もかもを「覚えて」いるわけではない。大抵の物事はむろん、思い出せば必ず見つかる。いっぽうで、イヅルの宮殿にはイヅルが鍵を持っていない、開かずの間があった。「その」イヅルはそこから一歩も出ずに、それでいて、どうしたものか、イヅルの宮殿の端々までを監視して暇を潰しており、イヅルの知らぬ間に、イヅルの宮殿を歩き回り、些細だが意味のある記憶を、イヅルに断りもなく、開かずの間に持ち帰りさえする。
そして「その」イヅルは、眠らない「この」イヅルの代わりにいつでも眠り、夢を見ない「この」イヅルの代わりに、「必ず叶う」夢を、見るのだ。
決して会うことのない、「自分」…。
何を見た? 何を知った?
何を忘れている?
お前は、何がしたい?
エレベーターの、中央に立っていた。開閉扉が鏡面仕上げになっていて…後ろに立っている人物と繋いだ手が映っていたが、一見、扉にはイヅルしか映っていないように見えた。後ろの人物の背はイヅルより低い。
庇うように前から握った「その」イヅルの、手甲から覗いていた、少女のような、指の細い、小さな手…。
ニキ…?
イヅルはベッドマットから起き上がり、ブランケットを纏わり付かせたまま、屋根裏部屋の一番奥まった区画にしつらえてある「窖(あなぐら)」へ、移動した。座椅子の上に胡座に腰を下ろし、エレベーターの識別番号をスグルに送る。イヅルは据付けられた5面ディスプレイを、見渡した。
仁綺が、流星群のようだと言った…ボットたちの、せわしないさざめきを目で追いながら、イヅルは唇に人差指と中指を押し当てて、動かなかった。
そのまま、座椅子に座った姿勢で後ろにぱたりと倒れ、反対に立ち上がった座面の端に組んだ足首を掛けたイヅルは、つま先の向こうに流れゆくデータを見やった。
「『星に』」
イヅルは、巻きつけて丸めたブランケットを胸のうえに置いて、棒読みに、嘘つきな人形にまつわる古い映画の歌詞を、くちずさんだ。
「『願いを』…」
仁綺は「窖」には、イヅルがいる時にしか来ない。けれども、イヅルがいる限りは、イヅルの胡座のなかに膝を抱えてすっぽりと収まって、ディスプレイを流れゆく数字を、イヅルと一緒に眺めていた。昨日のことだ。仁綺は、いつものようにイヅルの胸のなかで黙って「流星群」を見ながら、静かな湖を前に、わけもなく悲しくなって涙が溢れるような仕方で、ふと、イヅルに話しかけた。
「イヅルは、流れ星に願い事をしたことは、ある?」
「どうかな。僕は迷信の類には、信頼を置いていない。君は?」
「んー…。流れ星を見たことがないから、ない。でも、願い事は、決めてる」
「ふうん?」
「『怖い夢を、見ませんように』。叶うといいな」
イヅルは仁綺の頭をそっと、撫でた。
「君の流れ星は、ニキ…このなかには、ないんだね…?」
「あればいい。だから、こうしている時は、ずっと願ってる」
重なった睫毛が先端にむけて烟るように光る、仁綺の横顔を、イヅルは斜め上から覗き込み、仁綺の前髪を整えて、眉をなぞった。
「『ニキが、怖い夢を見ませんように』。いいよ。僕の願い事は、君にあげる」
イヅルは、仁綺の頬骨に唇を押しつけて、胡座にしたほうの右膝に乗せられていた仁綺の手に、自分の手を被せ、仁綺に囁いた。
「願い事か…。願い事は…昔は、あったな。小さい、小さい頃だ。もうなにも、知りたくありません…なにも、知らせないでくださいと、ルリがくれた十字架を握って、毎晩、祈っていた」
「…毎晩?」
「そう。毎晩ね。ルリはその十字架を僕に渡す時、祈りは魂を守るから、ひとりの夜には必ず祈りなさいと、言った。祈るのは、奇跡を起こすためではない。祈るのは、奇跡が起こらないことを思い知り、世界に関わる覚悟をするためだ、ともね。僕の夜は、長い。祈る時間は十分にあったが、そのうちに僕は大きくなり、ひとりで夜を過ごさなくなって、祈りの習慣を失ってしまった」
「もう、祈らない?」
「ん…たまにはね。暇なら。それに、昔のように、何かが起こることを願うのではないよ。…あの頃も、祈りながら、矛盾に気付いてはいた。僕の願い事は、願っている僕自身がいなくなれば、叶っただろうが…僕は結局、いなくなることを選ぶのではなく、二度とそんな願いを抱かないことを、選んだ。もう、冥福を祈るような、曖昧で、いい加減な祈りかたでしか、祈らないよ」
「……」
「敬意のない、手すさびの、趣味のような祈りかただ。けど…」
「けど?」
「これからは、僕といないニキが怖い夢を見ないように、ひとりの夜には真面目に、祈ろうか」
「ルリの…十字架は?」
尋ねた仁綺に、イヅルは自分の額を指差して、微笑んだ。
「『ある』けどね、『ない』。初めから、『ない』んだ。どんな十字架か知っているのは、渡したルリと、受け取った僕だけだ」
額を指すのをやめ、腕を下ろしたイヅルはまた、自分の右膝に優しく憩う仁綺の手を、手で覆った。
「《業界》の人間は、極端に物持ちが悪い。ずっと持っておくには、持たずにいるしかない」
「世界に、関わる、…覚悟…」
イヅルは、仁綺に言った言葉を繰り返して、目を閉じ、自分の体の隅々まで、意識を巡らせた。引力と、抗力、皮膚と、組織、骨と、筋肉、動脈と、静脈、…ゆっくりと、ゆっくりと…ゆっくりと…呼吸を、繰り返した。
「その」風景は、暗闇の先に置かれた蝋燭だ。周囲はあまりにも暗く、灯火は周囲を照らすにはあまりにも、小さい。
灯火が近づいているのか、イヅルが近づいているのか…。
呪いも、祈りも、抵抗も、無為も、全ては宿命の道端に転がる小石に過ぎない。
奇跡は、起こらない。
通る道は、ひとつだけだ。
イヅルは目を開け、足先の向こうに煌めき流れ落ちてゆく「流星群」に、視線を遊ばせた。
昨日、祈りの話など忘れたかのようにセックスに没頭したあと、満ち足りた沈黙に浸りながら、隣で天窓を見上げた仁綺の口からこぼれた呟きを、イヅルはなぞった。
「『遠いね。夜空には、過去の光しかない』…」
>次回予告_12.スグル
「すっちゃんが嫉妬ねぇ」
》》》》op / ed
今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。