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春を謳う鯨 ㉙

◆◇◇◇ ㉘ ◇◇◇◆

鈴香が大好きで、気持ちいい鈴香が、大好き。ね。いま、すごく、嬉しいんだ。だーいすき、だよ。

鈴香は…さっき、レストランから帰ってミナガワが見せた涙を、思い出した。本当に…? そんなこと…?

…好きって、言っても、いい…?

鈴香が尋ねると、ミナガワは、うん、言って…? と、鈴香を強く、抱きしめた。

好き…好きだよ…。なんだか、難しいけど、私は、ミナガワのこと、特別で…やっぱり、好き…。

ミナガワは、寂しさと嬉しさの入り混じった、優しい笑顔を鈴香に向けた。

鈴香とミナガワは、そのまま軽く、少し、長く、唇を重ねた。

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今日、駅まで鈴香を迎えにきたミナガワはショートパンツ姿で、可愛らしいヘルメットをふたつ、腕に提げていた。ミナガワから手渡されるヘルメットは、数年は使われている様子で、いつも、鈴香は安心したような、胸苦しいような、複雑な気分になる…。原付で5分ほど行ったカフェレストランで、結婚のことを告げたとき、ミナガワは案の定、複雑そうに表情を翳らせた。

言わないのは、違うと、思って、…。

ミナガワは困惑したように首を傾げてから、ううん、もちろん、言ってくれて嬉しいよ、だって鈴香にとって、すごく、大事なことだもん、と、ぼそぼそと言ってから、違うの、なんだか、実感なくて、反応、できなくて…と、俯いた。

喜んでみせるのも、変でしょ…? あ、ほら、鈴香は初めから、言ってくれてたから…私もそういうつもりでは、あったし…。

鈴香も俯いて、小さな声で、呟いた。

うん…あんまり…自分でも実感、ないんだ。何が変わるのか、わかってないっていうか、今すぐには何にも、変わらない気がしてる…。

「鈴香にとってすごく大事なこと」…ミナガワには…? 「そういうつもり」…どんな…? 鈴香は沈黙を紛らわそうと、サラダのアボカドに箸をつけた。ミナガワはレストランの二階の個室を予約していた。見かけないほどの大皿に、魔法の国の地図のように緻密に料理が盛られた、ワンプレートランチだった。追加オーダー用の、白いリボンの結ばれたベルが、テーブルの隅に置いてあった。出窓から、乗ってきた原付とヘルメットが、見えていた。ミナガワは、箸を置いて、ドライシェリーのグラスを持ちかけて、結局、その手を膝に挟んだ。

変わらない…? 会えなくなったりはないって、こと…で、いい…?

それは…うん…。だって…。

鈴香は口ごもった。いままで、ミナガワには楢崎くんについて全然、話してこなかった。「友達」の時は、交際相手がいないらしいミナガワに彼氏の話をするのは、躊躇われたし…思えば不自然なくらい、ミナガワは楢崎くんの話を聞きたがらなかった。そのこともあって、もっと曖昧な関係になってからはなおさら、言えなかった…言えなかったし、ミナガワは鈴香の体から、鈴香と楢崎くんの関係の、少なくとも性的な部分に関してはもう、うっすらと、察しているのではないかと、鈴香は思っていた。

はじめ…鈴香は本当に、軽い、優しい気持ちで、ミナガワの気持ちにそっと、ほんの少しだけ、踏み込んだつもりで…こんなに、呼ぶのは簡単なのに説明するのは難しい、こんな、関係を、どうするかなんて…。

私ね、ミナガワとの関係が、ちょっと…変わってから…ミナガワがいなくなっちゃったら、やだって、思うようになって…ミナガワと会ってない時にも、ミナガワのこと、考えるようになって…でも、そんなのは…よくないでしょう、よくないと思って、なのに、私…。

鈴香が黙り込んでも、ミナガワは口を開かなかった。

何と言えばいい? 言葉にすればするほど、伝えたいことから遠ざかる気がした。

やっぱり、もう、友達には、戻れないよ。

ミナガワはびくりとした風に、鈴香を見つめた。

だって…私、…私こんなこと、本当は、…本当は、ちょっとだけ、普通より、仲良くなるくらいのつもりだったの…でも…。

鈴香…。

私、きっと…ミナガワのこと、ずっと好き、だったんだと思う…自分であんまり、わかってなくて…いまごろ、気づいたの。私は、けど、そんななのに、…すごく、言いにくいんだけど、でも…夫婦になって、子どもを持って、一緒に暮らしていく人も、私は欲しい…。ミナガワには、…私は…そういう覚悟は、ないと思ってるし、なにより、自由でいてほしくて…だから、だからね、虫がいいこと言ってるのは、わかってる、でも私、ミナガワが、私に興味がなくなるまでは…。

鈴香。

ミナガワは、鈴香の言葉を、遮った。

…。

鈴香、なんの心配も、いらないよ。いま、…いまはその、ずっと好きだったと思う、のところに動揺してて、嬉しくて死にそうになってるから、あんまり、冷静なこと、言えないけど、鈴香は何にも、悩んだり、心配したりしなくていいの。…私、自信が持てなくて、この一年ときどき、鈴香を不安にさせるようなこと言っちゃったかもって、ちょうどね、反省してたんだよ。だから、いま、はっきり言うよ。疑わないで。

…ミナガワ…?

私は彼氏と鈴香を取り合うようなこと、しない。鈴香の彼氏に勝つために点を取りに行くようなことは、私はしたくないんだよ。だから鈴香は、物足りないかもしれないけど…。

…。

鈴香は、人といるために、時間がかかるでしょう? 鈴香には私より先に、いまの彼氏がいて、それでも、鈴香は私にチャンスをくれた。それがどんなに大きなことだったか、鈴香はきっと、わかってないと思うんだ。

…。

鈴香が変わっても、変わらなくても、私は鈴香のことが、ずっと好きで、…ずっと大好きで、でも、もっともっと、深く、好きになるためには、私にも鈴香にも、時間が要るんだと思う。それは、仕方ないって言いかたはよくないな、それは、ごく当たり前な、普通のことでしょう。

うん…。でもミナガワ、私…。

ミナガワは微笑んで、やんわりと、首を横に振った。

言ったよね、私は拗ねたり、わがままを言ったり、しない。鈴香がいてくれる、ただそれだけで、幸せなんだよ。私ね、何度も、鈴香に「もう会えない」って言われる練習、してるんだ…でも、逆に私が鈴香に、そんなことを言う日は、一生、来ない。一生来ないって思える、それって私には、とっても大きなものを得てる、証なんだよ。疑わないで。少なくとも私の気持ちの部分に関しては、鈴香は何にも、不安に思ったり、心配したり、しないで。ね…?

そんな…。

鈴香は、言葉を継げなかった。いちど、口を噤んでから、こちらをじっと見つめているミナガワを、見つめ返せずに、目を伏せた。

そんなに、好かれる資格、私には…。

鈴香。いまは、無理でもいい。だんだんで、いいの。信じてほしいよ。私ね、鈴香のこと本当に、好きなの。本当の、本当に。

ミナガワの真摯な口調に打たれて、ときめきで胸を苦しくさせながらも鈴香は、鈴香が楢崎くんをどれくらい好きなのか、というような話を一回も出していない、ミナガワの巧妙さに、気づいていた。ずっと、気になっていた。ミナガワは女の子がよく言う、いじけたようなことを全然、言わないし、試すようなこともしない。それは…意識しないで、練習しないで、できることだろうか? ミナガワは今まで、どれくらいの女の子を、その言葉と、体と、まなざしで、溺れさせてきただろう? ミナガワが鈴香で遊んでいない保証がどこにある? ミナガワが「責任」から逃れて、今に生きているだけでないと、どうして言える? …鈴香はどうして、そんな嫌味なことばかり考える? まるで、信じたくないみたいに…信じるのが怖い、それはそうだ、そんな風に誰かを好きになることはだって、鈴香にはできない…ミナガワはそれも、知っていて…。

そんなことって…。

あるよ。

だめ。…私に、都合が良すぎるよ…。

とんとん拍子って、思えばいいよ。

ミナガワはテーブル越しに、鈴香の手を取った。ミナガワの右手首には、鈴香のそれとお揃いのブレスレットが、残暑の陽光を受けて、煌めいていた。

きっと、君を守るよ。

鈴香は佐竹さんの言葉を思い出した。もう何年も前のことだ。結局、ブレスレットのことを鈴香に訊いてきたのは、楢崎くんと、ミナガワだけだった。ふたりとも、鈴香が大事にしているそれを、大事にしてくれて、鈴香は、それで…。

きっと、君を、守るよ…。

鈴香はミナガワを見た。ミナガワは、目が合うと、微笑んだ。

本当に…。

ん…?

私、ミナガワのこと、こんな形でも、好きで、いていいの…?


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。