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春を謳う鯨 ㉟

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どうした?

視線に気づいたらしい奏太が、眼鏡越しに鈴香を見つめた。

なにを…考えてるんだか。でもそう、これが、正解なんだ…。鈴香は奏太に、手にした書類を示した。

あ。ううん、ちょっと、考えごと。行ってきます。

おー。いってら。

奏太は画面に視線を戻しつつ、ゆるゆると、手を振った。

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麗が麗なんていう、男の子らしくない名前で、会社の近くの印刷店でアルバイトをしていることを、鈴香は知らなかったし、知ることになるとも思わなかった。




週の両端がばたつきがちな鈴香と柿本が飲みに行くのは、決まって水曜だ。柿本が気に入っているらしい、ワインが売りの南仏料理屋で、鈴香は婚約に至った経緯や今後のことを、柿本の合いの手に掬われそうになりながらも当たり障りなく、話して、それから週末に楢崎くんと行った、鎌倉の話をした。…水族館には目もくれずに江ノ島行きの船に乗って、涼しく湿った、暗い洞窟のなかを、手を繋いでうろついた。楢崎くんに合わせているせいで息を切らしながら、階段を登った。高台の定食屋の、海の見える座敷で、黙って海を眺め、江ノ島ビールを飲んだ。帰りの江ノ電が架線障害で止まった。待つのが嫌いな楢崎くんが痺れを切らして、歩いて帰った。ゆったり時間の流れる、気分のいい夕暮れだった。その日、楢崎くんとはとても気が合うような気がしていたけれど、そのあとふと、他の誰とだって5年も付き合えばそんなものなんじゃないか、と思って、自分の恋愛がわけもなく、ちっぽけに見えた…。

鈴香は楢崎くんの面倒な部分について、たいしたことのない愚痴を言い、柿本は惚気だねえ、と言って笑った。柿本はすっかり忘れているみたいに倉沢さんの話をしなかったし、鈴香も、敢えてそこに踏み込んで、奏太の存在を探ろうとはしなかった。ヘッドハントで去年転職していった元上司に紹介された、ビジネスアナリストといま、いい感じだという柿本は、鈴香に「男を楽しませるコツ」をいくつか、教えてくれた。きっと喜ぶだろう、もちろん、ぼんやりとは理解できたけれども、鈴香がしたところで距離ができるか、心配されるだけだろうと思うようなことばかりだった。

だって、ミナガワも、佐竹さんもよく知ってくれている、鈴香はなんでも「普通」が好きだ…楢崎くんはもしかしたら…でも…いやらしい言葉を囁きながら乳首を…? 柿本にされたら、鈴香だって、興奮はするだろうけれど…。

翌日、軽い二日酔いで迎えた午前中を、栄養ドリンクでなんとか乗り切った鈴香は、昼休みをうどんで済ませて、予約していた部署関連の書籍を、駅向こうの書店に受け取りに行った。帰りに薬局に通りがかった鈴香は、家の綿棒が切れてしまっていたことを思い出した。

日用品は、ストックを必ず用意して、暮らしている。切らしたことがないせいか、ストックまでないことに気づいた朝からなんとなく、落ち着かなかったのだ。時計を見るとまだ、10分は余裕があった。

あることくらいは知っている、というくらいの、日頃は入らない薬局だった。鈴香は商品の配置に合点がいかないまま、綿棒のパックを探した…けれど、なぜか、いつまでたっても、見つからなかった。

おかしい。衛生用品のコーナーにも、特価品のコーナーにも見当たらない。

思ったより時間がかかっていた。知っている場所で買えばいいものを、焦って知らない場所で探すことにして、それで結局、見つけられずに時間を無駄にしたらしい自分に、鈴香は苛立ちはじめていた。全部の棚を、見たつもりなのに…。

ミドルウェーブの黒髪に、黒いシャツパンツでスタッフ証を首にかけた、エプロン姿の男の子が、中腰で何かを整理していた。

すみません、あの、綿棒、探してるんですけど、見つからなくて…。

男の子は立ち上がって、さっと、けれども鈴香を上から下まで、見た。すらっとしていて綺麗だけど、失礼な子だな、と、鈴香は思った。

あの…。

男の子は、気まずそうに鈴香に笑いかけた。

自分、店員さんじゃないんすよ。客。ごめんね。

…! あ、…。

はは。確かにねー。まぎらしーっつうのな。自分も綿棒はここではちょっと…。

いえ、…すみません、自分で、探します。

男の子は、また…そうか、ワックスを見比べていたのか…棚を向いて、鈴香は、隣のレーンに入った。洗剤が並んでいた。…絶対に違う。

そういえば、クイックルワイパーも切れかかっているのにストックが1パックしかなかった。せめてそれだけでも買ってこの時間を、意味のある何かに使ったことにしようか? 鈴香が香り見本を手に取ろうとした時、レーンの端に、さっきの男の子がぴょこんと顔を出した。

こっちに、ありますよ。あったあった。

あ、ありがとう。

答えてから、初対面の男の子に敬語を使わなくてもいいくらいには、自分は大人になったんだな、と思った。なんだか、ちょっとした気づきを得たような、新鮮な気持ちだった。

なんで、見つかんなかったんだろ。こんなにちゃんとあるのに…。

鈴香はかがんで、一番安い、2個セットのパックを手に取った。男の子に振り向いてもう一度、礼を言おうとした。

男の子は片手を腰に当てた姿勢で、今度こそまじまじと鈴香を見ていて、鈴香はぎょっとした。

…いろんなもんごちゃごちゃ置かれると…情報量がすごくって、ダメですよね。自分もそういうタイプなんで、わかります。じゃあ。




男の子が北原麗という名前の、近隣の理系国立大に通う3年生で、会社近くの印刷店でアルバイトをしていることを、鈴香はその次の週に、知ることになった。

鈴香はこの時、そんなことはまだ、知らなかったし、知ることになるとも思わなかった。

知らなくてもよかったし、たぶん、知りたくなかった。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。