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春を謳う鯨 ㊶

◆◇◇◇ ㊵ ◇◇◇◆

いいよ。連れ回してると思われたくないから、大人っぽい格好、してきてね。

あ、そっか…や、まーかせて。ほら、名刺の裏の、一人株式会社ね。仕事用のスーツ。着てくよ。

いつも帰るくらいの電車には、乗れた。ああ、予約は…まあ、いいか、気が利いていなくて、していなければ、近くの飲食店に入れば…それが気軽でいいのだから、むしろそっちを、調べておこう…。

吊革を掴んだ腕に頭をもたげて、見慣れた風景が流れ行くのを眺めながら、鈴香はふと、ひとりごちた。

なにそれかわいい。馬鹿みたい。…か…。

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おはようございます
昨日は色々教えてもらえて、すごく参考になりました!また是非よろしくお願いします。

翌朝、通勤電車に揺られていると、LINEでメッセージが届いて、返信するまで鈴香はひと駅ぶん、考えた。

少しでも役に立てたならよかった こちらこそ、よろしくね。

打ってから真ん中に、「就活、大変かもしれないけど」と加えかけて、続きが思いつかずに、文面を見つめ、それは消して、元のまま送った。このやりとりは…余白が大切なのだろう、だからやり過ぎは、面白くない…。そのあとの返信はなくて、電話が、月曜の昼休みに来た。鈴香は社食でサンドイッチを食べていて、麗が昼休みにほんの少しだけ会いたいと言ったのを、聞いてあげようかどうか迷ってから、断った。「仕事の時は、仕事のことを考えていたいの」。…実際には、窓の外を眺めるふりをして、行き交う社員があれこれとやりとりするのを、ぼんやり、見ていただけだったけれど…。

考えてみると、芝公園付近はどの駅も通勤経路からずれていて、遠い。新宿にも同じような場所はあると鈴香は提案した。麗には、こだわりがあるようだった。結局、麗の決意が堅そうなのを汲んで、鈴香が折れた。会社に早く来た日に早めに帰るのは…鈴香には、よくあることだ。どの駅でも、7時前には行ける…帰りは浜松町から帰ろうと思う、遅くとも10時には、浜松町に着きたい…。なんだかそういうサービスの男の子に注文をつけているみたいだ、と、鈴香は内心苦笑した。麗は、赤羽橋にしようと言った。鈴香は会社のほうから合流してもいいと言ってみた…だって…会っている時間は、そのほうが長くなるのでは…? 

だーめだって。待ち合わせはデートの大事な要素だよ。

デート…。鈴香は、鈴香には違うと言いたかった。とはいえ、じゃあ何、と訊かれても、答えようがなかったから、その部分は拾わずに、電話を切った。

デート…楢崎くんはこのところ、忙しくしていて…思えば、かっちりとしたデートは、しばらくしていない。もうたくさん、してきたから、なんでも二番煎じみたいで味気ないのは、確かだけれど…。

楢崎くんはその土日、会社の合宿でいなかった。

逗子のほう…電話が来るかもしれないと思っていたら、なかった。鈴香はといえば土日は、引越しで処分する予定のものをリストアップして、粗大ごみの日にちを調べて…読みさしだったロマン・ロランを読み終えたほかは、昇格後の追加研修のテストのために、テキストを軽く復習したり…土曜の夜は、出張で関西のほうへ行っているらしいミナガワと、電話した。火曜までいなければならないから、土日は観光するとミナガワは言っていて…その日のツイッターには、神戸のデートスポットの写真がちらほらと、あがっていた。鈴香は…そんなつもりではなかったはずなのに、結果としては…ミナガワに、自分でするのを、手伝ってもらった…。楢崎くんは帰ってきた日曜の夜、そのままの姿で鈴香の家に来て、鈴香を連れて家に帰った。アルコールの残った、気疲れした様子で、幹事をしていたと言っていた。ベッドに入ってから、鈴香が、しっかり者だと思われちゃうと、ときどき損だよね、と言うと楢崎くんは、だらしないよ、ほんと、生き様がみっともない。と、眉を顰めた。

力関係だけで適当に決めて、慣れない奴にやらせると、イライラの連続で発狂しそうになるんだよ。仕事でならまだしも、レジャーでだよ? かといって、向こうにも顔があるから、差し出がましい真似はできないだろ。少し面倒があっても自分でコントロールできてるほうが、断然ストレスが少ないよ。

呟いた楢崎くんは、目を閉じた。

呼吸はすぐ、寝息に変わっていた。鈴香は少しだけ、楢崎くんの寝顔を眺めてから、自分も眠りについた…。

今月の就業時間で言えば、1日くらいなら早く帰っても余りがあるほどだった。けれどもさすがに、それほど颯爽と私用で帰れるような職場でもない。やっぱり早出してごまかそう、と思っていた矢先、御茶ノ水へ行くスケジュールを水曜日に前倒しできた。当日、やきもきせず定時に直帰できることになった鈴香は、千駄ヶ谷から国立競技場へ乗り換えながら、既視感を覚えた。

前は…どうしたのだったか、大江戸線には妙に記憶があるけれど、こんな乗り換えは、しなかった。きっと帰りに、使ったのだろう。覚えていないのは、仕方ない、もう、5年も前の話だ…。あの日、行きは浜松町からで、楢崎くんがタクシーを捕まえた。ラウンジバーでディナーを食べて、ほろ酔いの足で入った部屋のカーテンを開けると、窓一面に、東京タワーの煌めきがあった…楢崎くんとの、初めての夜だった。あのときの鈴香には、楢崎くんはとても、びっくりするほど、情熱的で…鈴香も、びっくりするほど、楢崎くんのことが好きな自分に気づいた…ような気がして、出会えた幸運に、感謝したっけ…。

23才だった。

たぶんもう、そんな夜は人生に二度と、ないだろう。…そんな考えだけが、暗闇に浮かぶ行灯のように、鈴香にははっきりと見えた。一生、思い返すだろう、大切な日だったのに、鈴香はこんなに、覚えていない…。

赤羽橋を出たところで合点がいった。見覚えがあった。そうか、赤羽橋から帰ったのか…。出口番号をうろ覚えのまま、反対の出口に出てしまった。交差点の向こうに、あちらの出口付近をちらちら見ながら、所在なさげに車を眺めて待っている、麗が見えた。鈴香はほんの少しのあいだ、まだ麗には見えていないらしいその場に、留まった。

今から、あの隣に、自分が…?

交差点のほうへ出て行って、手を振ると、麗はそこで待っておかずに、横断歩道を進んできて、鈴香にたどり着いたところでくるりと反転して、鈴香に並んだ。鈴香は、のんびりとした調子で隣を歩く麗を、見上げた。

目が、合った。

…なに? 背伸びしすぎた?


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。