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春を謳う鯨 ㉝

◆◇◇◇ ㉜ ◇◇◇◆

楢崎くんは外した、重たげなゴムを、捨てといて、と、鈴香に渡した。鈴香はそれを摘んだまま、のろのろと起き上がった。ルームウェアを下敷きにしていることに気づき、もう片方の手で引き抜いて、楢崎くんのほうに投げた。

お茶を飲んでシンクを片付けて、鈴香が寝室に戻ると、楢崎くんはボクサーパンツだけはどうにか穿いた、という様子で仰向いて、鳩尾に左の掌を、額に右の甲を当てて、寝入ってしまっていた。鈴香はベッドいっぱいに伸びた楢崎くんの体をそっと乗り越えて、向こう側の隙間に入り、楢崎くんの剥き出しの腹部に気休めにTシャツを巻きつけて、その上に上掛けをかぶせ、自分もその中に入り、壁を向いて、目を閉じた。

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連休明けは特許事務所からパラパラと書類が返ってきて、気ぜわしい。頭のなかは混み合った海水浴場のようで、あれこれの案件内容が思考の海に、雑然とした様子でひしめいていた。

何が重なろうと、それぞれはひとつずつ、ひとつずつ、片付けていくしかない。

鈴香は気分転換に席を立った。女子トイレが、工事中だった。鈴香は上の階へ階段で上がって、慣れない顔ぶれとすれ違いながら廊下を抜け、鈴香の階のそれとよく似て、どこが違うとは言えないもののなんとなく違う、ドアを押し開けた。

大村ぁ。どした? 泣きに来た?

経理の柿本だった。数週間ぶりに会った柿本は、髪を黒く染め直して、きちんと巻かれた毛先に、鎖骨をくすぐらせていた。雑誌で見かけたことのある、アーカーの金のネックレスが、華奢な胸元に映えていた。手元にコンタクトケースがあった。

何泣き。うちの階が工事中だったの。…大丈夫?

うん? あ、いまやっと取れたとこ。ずれたまま出てこなくなっちゃってさぁ、痛いわ、涙で化粧剥げるわ…もうインテリ眼鏡さんでもいいのかなぁとか、思いながらも、頑張ってるところにさ。下がるわー。帰っちゃおうかな。

とか言って、深夜まで働いてたりするんでしょう。うちも季節変動あるけど、たぶん経理ほどじゃないな。

まあねえ。季節は季節っていうか…結局、月末月初だろうな。淡々と、地味にね…押すのよ。月次はどんな時にもやらないとだからさ。

ふうん…。

柿本はコンタクトを洗って、充血気味の右目に入れ直すと、ああ精算といえば…と、入口近くに立ち止まっていた鈴香を、手招きで呼び、低い声で囁いた。

大村は耳が遅いから知らないでしょ、倉沢さん。

胸が騒ぎ、鼓動が速くなったのを感じた。アイライナーで深みの際立った、柿本の切れ長の大きな瞳を、見つめた。鈴香は努めて、何も知らない人間が興味を引かれたような様子を装って、柿本に合わせた目を見開いた。

倉沢さん? って…?

田中さんと。別れたらしいよ。別れるだけじゃなくて、来月で辞めるって。

え…?

で、噂なんだけど、光学の堂島さんと、結婚するらしいの。

…なんで、そんなこと…柿本が知ってるの…?

いっつも言ってんじゃん、経理舐めんな? みんな精算ついでに変な話、置いてくんだよ。それらを総合することによって、それぞれの目には見えてない、複雑な事情が浮かび上がるわけ。

もちろん個々の情報ソースは、明かせないけどね、と、柿本は肩をすくめた。

なるほどね…けど…堂島さんってこの前、申請で会ったよ、課長補佐でしょ? そんなはず…。だって、指輪あったもん。

そう。そこなのよ。どうも相互略奪みたいなの、すげくない? ドロドロしすぎで超、楽しいよね。

…。まあ…そういう展開ってなかなかないから、好奇心は、そそるかもね…? でもそれって…堂島さんは会社で、大丈夫なのかな…。

でしょ? そう思うじゃん、で、堂島さんは堂島さんで、転職して、年末から北京行くって。

う、わ…駆け落ちみたい…。

駆け落ちでしょー。なんかね、聞いた話だけど、今年に入ってから、倉沢さんたまにずっと、マスクしてる日あって。痣、隠してたらしいよ。

嘘…田中さん…?

まあ、言わないけどそうなんじゃない? だからほら、堂島さんもさ、今まで出てこなかった何かの問題が出てきて奥さんとうまくいかなくなって、そこに倉沢さんが泣きついて…みたいな?

ちょっと、待って。事実みたいに話、してるけど、辞める話以外は全部…想像、だよね…?

わっかんないよー。倉沢さん、もう出社しないって。別れ、切り出したせいでボコられちゃったのかもって、みんなドキドキしてんの。

そんな、…噂が、一人歩きしてるだけじゃないの。ほら急に辞めるって、鬱とか、転職とか、もしかしたら田中さんとのあいだに赤ちゃんができて、体の調子で動けないとかだって…あるんだから…。堂島さんだって一応、単なる転職って可能性も、あるんだよね…? ただの噂だったら、それこそただじゃすまないよ、それ…?

まあねー。でもさ火のないところには立たないって言うじゃん。誰も、誰にも訊けないからさ、憶測するしかないじゃん。あー、ときめくわー。

どうかなぁ。私はそういう、人目だけ引くようなふわふわした話は、信じたあとが怖い、気がするけどね…。

話を続けかねている鈴香を横目に、柿本は自分からの話は終わった様子で、メイクを直し始めた。

ねえ、…大村さぁ…なんか、雰囲気変わったね。まさか彼氏変わった…?

…。え…? ううん…。

あっそ。…変なの。結構、勘は鋭いほうなのになぁ。

…あ。プロポーズかな。されたよ。

おいおいまーじかぁ、と、柿本はコンパクトを鈴香の目の前でパタンと閉じて、おめでとう? つか、さようなら?と尋ねた。

仕事はずっと、続けるつもり。

おめでとうは? 言っていいの?

もちろん。

おめでと。

ありがとう。

みんなには言わないほうがいい?

尋ねた柿本に、鈴香は、婚約指輪をつけてくるまでは誰にも、と答えた。

オッケー、なんつうか…婚約指輪とはね、けしからんなぁ…ま、そこがまた大村っぽくてよき、なんだけどね。ねえ…例の、トーキョーウォーカー君でしょ? プロポーズエピソードとか堪んないよ。来週どっかで飲み行こ。

あ、うん。戻ったら、スケジュール見てみるね。じゃ…。

腕時計に目をやって、個室に向かおうとする鈴香の背中に、柿本は軽く手を当てた。

大村。ここでの話はくれぐれも…。

鈴香は唇に人差し指を当てて、微笑んだ。

内密に…と、ふたりで、呟いた。

柿本は、やー、くさくさした気分が晴れたよ、大村ってなんでか、空気を清浄にするよね、不思議。と、鈴香に微笑み返してから、出て行った。

鈴香は、さっきまで柿本がいたところにふと、目をやった。ティッシュボックスから、三角に折られたティッシュが覗いていた。

たまにしか会わないけれど、柿本が何かしたあとを見ると鈴香はいつも、狐に抓まれたような気分になる。

柿本が使ったあとの洗面台は、まるで使われてなどいなかったかのように、いつのまにか、綺麗に拭かれていた。


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今日は明日、昨日になります。 パンではなく薔薇をたべます。 血ではなく、蜜をささげます。