見出し画像

性被害自助グループでの学び(2回目)

性被害の自助グループに参加してきた。これで2回目。鬱が少し落ち着いたが、ややフラッシュバック傾向が強めだ。前日からよく眠れなくて、ソワソワが止まらない。それでも、最近の私は何もしていない感じがして、これで自助グループにも行かなかったら、さらに自分はダメなやつだと落ち込んでいたと思う。

結果、行けて良かった。

家では隠すしかない感情や言葉にもならないモヤモヤを外に出すこと。言葉にできなくても、自分に起きたことを表現しても良い場所に居ること、人の話を聞いて体験や感情に共感できる世界があると思うことができる。

今回、学んだことを以下にまとめた。

自分をどう表現するか

トラウマを持つ人は自分の中に複雑な感情が、次から次へと湧いてくるが、それをどんな言葉で表現するのか。自分を表現できることは、自己を理解することであり、コントロールすることに繋がると思う。もし共有できれば、自分の成長を実感し、新しい発見もできる。

私は自分を表現するための言葉が少ないと感じた。頭の中ではグルグルと考えているが、実際にアウトプットする機会はほとんどない。自責が強過ぎるために、自分自身を傷つける言葉や聞くには耐えない重たい言葉が浮かんでくる。

私を表現するには、そういった酷い言葉を柔らかい言葉に変換する必要がある。私に起きた辛い体験やドロドロした感情も、そのままストレートに伝えれば良いというものではない。話すこと自体が負担になるし、ドキドキし過ぎて思うように伝わらない。自分の頭の中だけで、完結させてきたので、適切な表現方法を知らないのである。

練習しよう。人の話をたくさん聞いて、素敵な言葉を集めよう。実際に声に出して、心と身体が納得して、ピッタリくる感覚を見つけよう。

「考えてはいけない」は本当か?

私の中には昔から「こう考えてはいけない」という感じがある。自己肯定感が著しく低いことに加えて、トラウマによって私は普通ではないと思ってしまう。トラウマの無い普通の人ならこう考えるだろう、世の中の正解はこれだろうと勝手に考えている。

そもそも、普通なんて人それぞれの基準があるもので人と比べられる物ではない。トラウマを体験していなくても、考え方は人によって異なるし、トラウマ経験の有無で区別できるものはない。一般常識としての知識とは別物で、人の感じ方は沢山あって良い。

この世に考えてはいけないことはあるのだろうか。例え、考えていることが自分や他者に不利益なことだとしても、そう考えてしまう原因や状況があって、今の私はその段階にいるというだけの話ではないか。一生その考えでいるとも限らないし、変化していくのだから、そう考える時期があっても良い。まして、考えるだけなら他者を傷つけることはない。

私の考え方は私だけのもの。良くない考えだとしても素直に考えてしまう事実を受け止めよう。きっと私ごときが考えることなんて、多くの人々が考え尽くしてきたことで、よくあることだ。「私はこう考えてしまうのですが、、、」とカウンセラーさんや専門家に話せば、きっと真剣に聞いてくれる。こう考えてしまう自分を認められないだけ。

何でも考えていい!!

フラッシュバックと回避

フラッシュバックは過去のトラウマ体験が映像で流れたり、その時の感覚や感情がありありと蘇ったりする。フラッシュバックが大きい時は、動けなくて寝たままの日が続いたり、眠れなくなったり、涙が出たり、苦しい感じがするので分かりやすい。

しかし、小さめのフラッシュバックもある。自分でも気づいていなかったが、日常の些細な会話が過去のトラウマと結びついて、その話題について話したくても話せない感じがある。これが回避だろうか。フラッシュバックしそうなことを避けているのかもしれない。

人の話を聞いてるだけでも、体が強張ってくる。今回は恋愛やセックスについて、オンパレードだったので、そういう性の話には入っていけない。気を利かせて話を振ってくれても、留年しそうな話とかしょうもないことしか言えない。これで助産師になって性教育したいって無理な話だ。

自分でも気付いていない回避行動やフラッシュバックの引き金があるのだろう。 よく分からないが、体調の悪い日があるし、自分でコントロールできない感じがずっとしている。焦燥感があったり、うつ傾向だったり、毎日生きるのに必死である。

まだ、どうやって対処すれば良いか分からない。次のカウンセリングでは聞いてみよう。

自助グループに参加したこと

毎日をトラウマによる症状に悩まされ、自己肯定感下がりまくりの私。それでも日々何かを模索して生きている感じがする。死にたくなる時も、苦しい時も時間が経つのを待つ。じっと待つ。

自助グループに参加するのは、私が選んで自ら決めていること。行かなくても良いし、行っても良い。しんどくても参加できた経験は少し成長できているのでは?と思わせる。かと言って、何が劇的に良くなる訳ではなく、日常は何も変わっていないように見える。

日々の苦しさに打ちのめされて、耐えることしか出来ない。そんな中でも、生きるために何かに気付くこと。考えたり、感じたり、希望を持つことを諦めない姿勢でいることは必要だと思う。

何年経っても、まだ苦しみの中にいて、それでも毎日を生きている人々に会う。どうやって生き抜いたのだろうか。外から見れば不自由なく生活している様に見えるのに、あるいはそう見せているのに、内にあるものにどう対処しているのか。私には未だ到底できない。生きていることに尊敬する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?