『かぐや姫の物語』を読む① 燕の子安貝と石上中納言の残酷な死
高畑勲の遺作『かぐや姫の物語』は、見るたびに、新たな発見がある作品だ。私は古典の授業では、必ず『かぐや姫の物語』を生徒に見せるようにしているのだが、毎年のように生徒と一緒に映画を見ることによって、細部のふとした描写に物語に深く関わるものが織り込まれていることに気づく。
今回、気が付いたのは、翁と嫗が赤ちゃんの姫を連れて外に出る場面で、燕が雛に餌を食べさせる場面が入っていることだ。これは子育てのモチーフから自然に挿入された描写であるが、しかし、燕と雛といえば、石上中納言が燕の子安貝を探していて、自分は高所から落下して腰の骨を折って死んでしまい、雛も殺してしまう場面が後に出てくる。
もともと石上中納言は優しい人柄の人物で、温かいものを求めて安産の守りともなるという燕の子安貝を喩えに出して、かぐや姫に求婚したことを思い出そう。しかし、その結果は燕の巣を漁って、自分も死んで、雛を殺してしまう、という最悪の結果に帰結する。単に雛を殺すことが最悪なのではない。本来、彼は温かい家庭を持ちたいという願いを持つ人物であり、巣を漁って雛を殺すような行為は、彼にとって最も忌むべきものであるはずのものだからこそ最悪なのだ。にもかかわらず、かぐや姫に執着するあまり、中納言は、本来の自分から最も遠い行為をしてしまう。
『かぐや姫の物語』には、他にも動物が子どもを守ろうとする場面が存在する。幼いかぐや姫ーたけのこが、猪の子どもを見つけて、触れ合おうとして手招くと、子どもたちが寄って来てなつき触れ合っているのに気づいた親が突進してきて、間一髪、捨丸兄ちゃんに助けられる場面だ。捨丸は「うりぼうの子どもに手を出すやつがあるか」と叱責するのだが、この場面もまた、動物における親子の絆の強さ、親が子を思う気持ちを描き込んでいる。
また、姫が花見に行って桜の木の下ではしゃいでいて子どもとぶつかり、姫が悪いのに、親が平謝りする場面もまた同様に子どもを守ろうとする親の姿を描くものだろう。
このように、親子の絆の強さを描く場面が多様に描き込まれているからこそ、石上中納言の燕の雛殺しと自らの死は、残酷なものとして際立つ。石上中納言は温かい家庭を築きたい人物だったのに、自らの欲望のために燕の巣を漁って雛殺しをした末に死ぬのだから、これは単に死んだというだけでなく、本来の自分を奪われて、人間としての尊厳も奪われた上で死んだということだ。残酷で悲惨だが、しかし高畑勲とは、『火垂るの墓』がそうであったように、そのような残酷な描き方をする演出家ではなかっただろうか。
そして、石上中納言が燕の巣から雛を持ち去っていく場面は、結末において翁と嫗が、月人たちに姫を連れ去られてしまう場面に繋がっていく。かぐや姫は、猪の親子の絆や、庶民の親子の絆を見て、それらと比較して翁が自分に対して良かれと思ってする愛情の方向が自分を追い詰めるものになっていっていることへの思いがあったはずだ。翁の姫への愛情はしかし表現こそ間違っていたものの純粋なものであり、純粋な姫への愛情を持つ翁と媼が、しかし、月人たちによって姫を奪い去られていく場面は、観客の胸を打つ。
しかし、姫を翁と媼から奪うことが残酷であるとして、それはそもそもかぐや姫を思うあまりに、石上中納言が燕の親子に対して行ったことなのだ、という因果応報の論理が、姫を一方的な被害者の立場としない。姫の「罪と罰」というモチーフは、このようなかたちでも貫かれているのだ。
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