労働としての共感ー映画『ミッド・サマー』と日本社会

 映画『ミッド・サマー』は、スウェーデンの原始的な生活を送る閉鎖的な村、ホルガ村を舞台とした「フォークホラー」(民俗ホラー。「フォークロア」は「古くからある風習・伝承」の意。)として話題になった作品である。ホルガ村は、一見、人々がみなニコニコ穏やかな笑顔を浮かべ、平和で穏やかな生活を送るユートピアに見えるが、この村を訪れた若者たちはこの村が実は、人々に「個」の意識が存在せず、村の維持のために、村のルールに従って死ぬことさえ厭わない、異常なディストピアであることに気づいていくことになる。若者たちは村のタブーを破った者から順に、次々と殺されていくが、殺人に手を染めた村人たちはそのことに罪の意識を感じることはなく、それどころか、村の儀式のために自ら死さえ受け入れていく。ホルガ村の人々の意識は、徹底的にホルガ村という「群体」の一部として成り立っており、「個」としての意識は存在しないのだ。このような村人たちに、山奥の閉ざされた村で、逃げ場もなく捕えられ、なすすべもなく殺されていく恐怖こそ、「フォークホラー」の本質である。

 しかし、ホルガ村がユートピアなのか、ディストピアなのかについては、実は明瞭ではない。この映画には、外部からボルガ村を訪れる若者たちの中には、これまでの人生の中で悲惨な経験を重ねて心を病み、生きづらさを感じている女性が存在するが、彼女は、「個」の意識が集団の中に埋没するボルガ村のあり方に適応して、生き生きと輝き始め、彼女もホルガ村を受け入れ、ホルガ村も彼女を村の一員として迎え入れていく。彼女にとってはホルガ村がユートピアで、現実の社会の方がディストピアだ。そして、そのような彼女を見て、もしかしたら自分にとってもホルガ村の方が合っているのかもしれないと感じる観客もいるだろう。ホルガ村がユートピアかディストピアかは、観客一人一人の主観によって変わるのだ。

 『ミッド・サマー』についての詳細な考察については、ネット上にも多数存在するのでそれらを参考にしてもらうとして、ここでは、労働という視点からこの映画を捉えたい。というのは、この映画を見た観客の多くは、このような共同体と個人の関係は、日本社会ではむしろ常識的で当たり前のものであって、何ら驚くべきものではないと感じたのではないかと思うからだ。日本の社会においては、同調圧力がきわめて強く、集団の和を乱す者は疎外、排除される。集団の和が何より優先され、その場の「空気」を読んで、「個」の意見を封殺し、責任者不在のまま、意思決定が行われる日本の社会のありようは、山本七平『空気の研究』などの研究によって指摘されている。このような日本社会のありようは、きわめてホルガ村的なのではないか。

 このような印象は生贄の儀式が行われる『ミッド・サマー』の結末において、ますます強まっていく。東須磨小学校の教員いじめ事件においては、学校で権力を持つベテラン教師を中心とした四人の教師によって、若手教師に対して、過酷で執拗ないじめを行っていたことが明らかになったが、内藤朝雄が言うように、こうした凄惨ないじめは、自分たちが組織の中で権力を持っていることを誇示するために行われた祭りであり、いじめを受けた若手教師はそのための生贄であった。(参考・内藤朝雄「日本の学校は地獄か…神戸「教員いじめ事件」の残酷すぎる支配構造」)。このような凄惨極まるいじめがこともあろうか、いじめを指導する側であるはずの学校の教師の間で見過ごされてしまうという点に、日本社会におけるコミュニティーを優先する共同体のありようの闇の深さが表れている。

 しかし、このような反論があるかもしれない。ホルガ村と日本社会はやはり違う。ホルガ村では村人たちは完全に「個」の意識を共同体に委ねてしまっているが、日本社会においては、自分が排除される側にならないように、保身のために集団に同調しているだけで、本音の部分では、集団の意見とは異なる意見を持ちながら、それを表立っては口にしないだけであって、「個」の意識は担保されているのだ、と。確かに、ホルガ村の「群体」的な意識のあり方は特異であり、あのような共同体は実際にはありえないようにも思われる。映画において、ホルガ村の人々は、「喜び」「悲しみ」「痛み」などの感情を共有しているかのように描かれ、生贄の儀式において村人が死ぬとき、村人たちは一斉に泣き喚き出し、あたかも死んでいく者に「痛み」を共有し、共鳴しているかのように描かれる。村人たちは他の村人たちと一つの「心」を共有していると信じることによって、死の恐怖や、孤独な個人であることの孤独や不安から逃れ、安心感を得ることができる。村人のメンバーへの「共感」はそのような共同体の絆を確認し強化するためにこそ、日常的に行われる。もちろんそのような「共感」は欺瞞であり、村人といえど他者の痛みを本当に感じられるわけがないが、だからこそ、そのような「共感」という幻想が共同体を維持する装置として用いられる。ホルガ村は「共感の共同体」なのである。

 このようなホルガ村の人々の意識について考える手がかりとして、ホックシールドの「感情労働」についての議論を参照したい。看護師や介護士、客室乗務員など、人間を相手にする仕事における「感情労働」について論じた著書『管理された心』において、ホックシールドは、「感情労働」のあり方について、「表層演技」と「深層演技」を分類している。「表層演技」とは、自分が本当に抱いている内面の感情は隠して、仕事の必要上、そのような感情を持っていると、俳優のように演技することである。「深層演技」とは、その仕事を行うために、自分の気持ちさえ騙して、自分の感情を仕事に関わる状況にふさわしいものに変化させることによって、自然と状況に適した感情の表出が可能になるものである。例えば、飛行機の客室乗務員は限界までハードワークが重なって過剰なストレスを抱えているときでも、客に対して笑顔を感情表出しなければならないが、それが「表層演技」であれば、もう限界に近いレベルで疲労や不満が溜まっている内面と、にもかかわらず表面上は笑顔でいなければならない落差に折り合いを付けられず、ストレスはさらに増すだろう。しかし、「深層演技」の場合、心の底からどんなに疲れていたとしても、できるかぎりお客様を歓待したいという思いを本当に抱いているならば、それがモチベーションとなって、過酷な労働環境に耐え、乗り越えられるだろう。

 仕事の内容が低賃金労働でハードワークであればあるほどに、従業員に心からの献身を求め、やり甲斐を与えることで労働者を搾取することができるこうした「感情労働」の仕組みは、近年、ブラック企業において確信犯的に活用され、とりわけブラック居酒屋における過酷な労働搾取のありようが話題になったが、しかし、日本の企業においては、多かれ少なかれこうした心からの献身が美徳とされ、求められることが一般的である。アルバイトに笑顔での接客を求めるのも、派遣社員に正社員と同様の忠誠心を求めるのも、賃金や待遇に対して過大な要求であるし、学校の教員は生徒のためにという思いで、残業代が出ない残業や、部活動での土日勤務をこなし、心身を病んでいくが、これらは近年ようやく意識の変革が叫ばれているものの、多くの職場において、いまだに当たり前のこととして考えられているのだ。

 例えば、映画『若おかみは小学生!』においては、事故で両親を失って、旅館での接客業を行うことになった女子小学生の主人公に対して、映画の後半において、あまりにも過酷でストレスフルな試練が課される。そして、主人公にはそのような状況においてもなお、接客業に携わる者としてのプロ意識を持つことが美徳とされ、心からお客様をもてなす「深層演技」が求められるのだが、子どもにすらこのように、個人としての葛藤を抑圧して、共同体に奉仕するために心からの献身を求めるこの映画のありようは、日本の社会における労働観を象徴している。

 そして、そのような労働環境においては、手段と目的はたやすく逆転してしまい、あたかもどれだけ仕事を達成したかよりも、いかに労働者が会社組織に対して心からの献身をしているかという精神性のありようの方が優先的な評価基準となってしまうのだ。「個」の意識を残存させている者は会社組織にとって排除すべき存在に過ぎない。つまり、このように言うことができるのではないだろうか。日本社会においては、「個」の意識を消失させ、自我を共同体の集合意識へと融解させる「共感」こそが労働なのだ、と。ホルガ村において、共同体のメンバーに対する「共感」こそが、ホルガ村で生活し、生き残っていくための労働であったようにーー。

 ホルガ村は、日本の社会の「陰画」(ネガ)にほかならない。


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