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後ろから羽交い絞めされるような無駄遣いしてえ

 昨日縁あって手に入れた『開放弦』という舞台のDVDを見た。2006年の夏にパルコ劇場で上演された戯曲だ。どうして今になって十五年も前の芝居を見る気になったかというと、無論、大倉孝二氏が出演しているからである。もう最近、大倉さんの作品を追うことしかしていない。ちなみに先日、実家のテレビ台に、かつて録画していた赤堀雅秋の『世界』がダビングされたディスクを見つけて小躍りした。それについてはまた別のときに書こうと思う。ありがとう過去の自分。

 すべての読者に優しくない、あらゆるものを吹っ飛ばした感想のみをだらだら書き連ねていくことにする。よかったら読んでね。めちゃくちゃネタバレしてるけれど。

 「かつてはここにいたけれど、今はもういないひと」を描写するのに、これより秀でた作品を見たことがないなと思った。これまで舞台上にいたそのひとがいない、という画面としての物理的な描写だけでなく、かたくなに明かされなかった感情の機微や、取り巻くひとびとがそのひとは「もういない」という事実と向き合うことでようやく、これまで自分たちが見てきたものは何だったのかと理解する瞬間、を緩やかに迫りくる切なさとともにひしひしと受け取った。

 ひとが死ぬ物語において最も悲しいのは、そのひとの死そのものや周りの人間による涙に誘発されるものではなく、ふっ、と訪れる《気づき》だと思う。これは観客にのみ与えられた感情で、作中の人間には絶対にないいわばメタ的な感覚なんだけれど、死んだひとを哀悼するひとらの、生きている間に気が付けなかった物事やそれによる後悔を今このときにすべて理解した、ということに見ている側が《気が付く》瞬間のことだ。『開放弦』において、その気づきを与える描写は秀逸だった。

 物語は通して単調で、少し退屈なくらいのスローさだ。片田舎にある農村の、訳あり夫婦とゆかいな仲間たちのひと夏を、なんとなく眺めている感覚。要所要所で物語を転がすセンテンスは出てくるし、夫婦を取り巻くキャラクターはそれぞれ感情の描写がはっきりしているのでわかりやすいんだけれど、肝心の夫婦二人が意志薄弱で、彼らが終始まごまごしているせいで物語の行く先がさっぱりわからない。しかしこののんべんだらりとした二時間三十分あまりを、最後の十分間がすべて回収していく。時間の配分だけ見れば、ちょっと強引なんじゃない?と思うだろうけど、またきれいに、というより計算されているんじゃないの、と感じざるを得ない終わり方をしている。このラストシーンを見たとき、観客(というかわたし)はこれまでを振り返り、夫婦の間で言葉にならなかった感情をさまざま想像する。そうしてそれはそのまま、夫婦を取り巻くひとらの「気が付けなかったこと」であり、また彼らの後悔への《気づき》となるわけである。

 ラストシーンの秀逸さを彩るのが、タイトルに冠されている『開放弦』だ。これがなにか知らないとたぶん、二時間四十分ポカンとしたまま終わる。ただこれが、指で押さえられていない状態の弦、であることを知っているだけで物語の見え方がガラッと変わると思う。

 ところで劇中にギターが登場するんだけれど、これがフェンダーのテレキャスターっていうのがまた良かった。アコギを使わずエレキにして、わざわざアンプにつないで音を出していたところがすごく素敵だ。テレキャスはクリーンで出すと、ロックンロールだぜジャーン、っていう想像しうるエレキギターの音のよりももっとアンニュイな感じで、これがストーリーの雰囲気とめちゃくちゃマッチしていた。

 このギターは劇中で、門田(大倉孝二)と遠山(丸山智巳)&恵子(水野美紀)が弾くことになる。門田がつま弾くシーンはなにやら居心地の悪さやなつかしさなどのちぐはぐな感情が同居するなか弾いている、といった感じで少し物悲しい。そういえば大倉さんはいろんなところでギターを弾いているのを見るけれど、もともとやっていたのかしら。昔のバイト先の同僚にギターを借りた話をしていたし、歌も上手だし、弾き語りもできるようだし。手の指も、親指は縦爪なのに他の四本は小さくて、指先も太くまあるくギター弾きの手って感じ。気持ち悪いですね。やめます。
 遠山と恵子がふたりで一本のギターを弾くシーンは、おそらく作中最も重要なシーンで、最後の場面と、『開放弦』というタイトルの理由へ紐づく大切な伏線になっている。遠山が左手で弦をおさえ、恵子が弦をはじく。それまでよそよそしさのある奇妙な距離感だったふたりがぐっと近づき、いわくつき夫婦の本心が垣間見えるような場面だ。

 じゃあラストシーンの何が秀逸なのかというと、すばらしさは「ふたりで弾いていた」ギターを「ひとりがただ音を鳴らすだけ」になるところにある。バンドのギタリストである遠山は最後、車にはねられて亡くなってしまう。
 生前事故の後遺症で右手が動かなくなった遠山は、バンドの新曲を作るため恵子の助けを借りてふたりでギターを弾くけれど、彼の死後、作曲した曲の譜面を見つけた面々は普通の楽譜とは違った書き方をされた譜面の読み方がわからず、動揺する。それはギターの経験がない恵子のために、すべての弦をはじくときは「全部」と、アルペジオの部分は弦の数字を書かれていて、ふたりだけがわかる譜面だった。恵子は、わたしわかる、といってピックをとり、弦をはじくが当然、鳴らすのみなので曲にはならない。コードをおさえなくちゃ、と周りに言われるものの、「そっちは遠山くんがやってたから」と恵子はただただ譜面に書かれたとおりに、一生懸命に、弦を鳴らす。

 タイトルの『開放弦』はここにつながる。音ばかりが鳴るギターの、弦をおさえるひとのもういないこと。取り巻きの面々はここで、ふたりの関係性を察知し、さまざまな感情にさいなまれる。ギターの音のみが響き、セリフはひとつもない最後の最後、役者さんたちは沈黙をもってしてその寂しさをじわじわと客席に広める。とくにバンドメンバーであり、ふたりの結婚に対し肯定的でなかった門田と依代(京野ことみ)の沈黙芝居はすばらしく、ただただ呆然と鳴らされるギターを見つめる京野さんと、何か言いたいのに何も言葉が出てこないさまをいらだった足取りで表した大倉さんは、悲しさを超えた感情をぶつけてきた。

 彼らの感情に《気づいた》とき、二時間四十分のゆったりとした物語の全容がいっぺんに浮き彫りになり、またゆったりとした切なさに包まれる。いったいこの物語はどこへ向かうんだろう、という不安と退屈の先で、開放弦を喪失になぞらえ、キャッチコピーである「大事なヒトとか 大事なモノとか 大事なコトとか 見えてます?」という言葉の真意をまざまざと突きつけられるのだ。

 
 ここから先は大倉さんのはなしです。

 十五年前の大倉さん、若い。三十一とか二のときだから、そりゃそうなんだけれど。相変わらずの細さだけれど、パンッ、としている。大倉孝二、と聞いて多くのひとが想像しうる、コミカルな動きと舌を巻いてしゃべるあの感じ。THE・大倉孝二。
 開放弦のことを調べると「鴨スライディング」という謎単語を散見したけれど、なるほど、確かに鴨に向かってスライディングしていたし、めっちゃ吹っ飛んでいた。こういう奇怪でアクロバティックなボディランゲージ(?)は大倉さんの十八番だよね。鴨スライディング以外もかなり不思議な動きをたくさんしていて、劇中の笑いは大体大倉さんの動きや言動で起こっていた印象。
 いまでこそ「それアドリブなの?そうじゃないの?」みたいに見ていて困惑する絶妙なお芝居を魅せるけれど、開放弦ではあまりアドリブ感がなく、また違った雰囲気が見られて面白かった。歳を重ねてより、シブさもひょうきんさも、また恐ろしさや狂気も自在に纏う大倉さんだけど、あえて逆行して見てみるのもいいね。
 しかしいつだって、座っているときの長い脚が邪魔そうで、片膝立てて煙草を吸っている姿のさまになること。長い手足を持て余しながら、猫背気味にゆらゆらっと歩くのがとっても素敵でした。いつもだけど。