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転校生

孤立した湖や池に魚はどうやって移動する?
面白い疑問。興味深い記事を読んだ。

ある水場で魚卵を食べた鳥が別の場所で糞を排泄。その中に消化されずに残った卵が見つかったのだという。

この記事を読んだ時、小学校の時にやって来た転校生のことを思い出した。僕の地元は兵庫県、転校生は小学4年生の時に大阪からやって来た。教室は「大阪から転校生がやって来る」という事で浮き足立っていた。兵庫県には地方によっていくつか訛りがあり僕の地元は播州弁という方言がある地域だった。関西弁とは似ているところもあるがかなり違う独特な訛りがある。大阪と聞くと「本場」という印象があった。そして期待通り転校生は吉本新喜劇で見るようなコテコテの関西弁で登場した。「なんでやねん」とナチュラルに言う姿が衝撃的ですぐに仲良くなりたくて話しかけた。「僕のあだ名うんこでええで」自虐にもほどがあるギャグだったが当時の僕は笑ってしまった。しかしクラス内ではギャグは通じておらずしばらく本当にうんこと呼ばれていて「なんかちゃうねんな」と計画通りに面白い奴という立ち位置を獲得できない心境を僕に話してくれた。
そいつは隣村に住んでいたので他の友達も集めてよく野球をして遊んだ。そいつは野球をする時にいつも漫画を持ってきてくれた。僕と漫画との初めての出会いは野球で自分の打順が回って来るまでの待ち時間に訪れた。そいつはリュックに数冊の漫画を詰めて来て空き地にあった大きな電線ドラム(木でできたテーブルみたいな形状のもの)の上にばさっと広げ、攻撃側のチームが読めるようにしてくれた。1冊目は当時少年ジャンプで連載されていたつの丸先生の「モンモンモン」。これ以後僕は高校までギャクマンガ一直線になってしまうほど衝撃を受けた。近所に本屋も無く、親も漫画をほとんど読まない家庭だったのでその衝撃はとても大きかった。僕以外の友達も野球よりそいつの漫画を楽しみにしている様子だった。うんこは(ごめん!)とんでもない手土産を僕らの地域にもたらした。漫画文化との出会いは唐突で衝撃的なものだった。次の休日に母にせがみジャスコ(地元のデパート)の本屋で珍遊記を1冊買ってもらった。

松田が会社に中途採用でやって来た時の会社の空気感はあの転校生が来るぞという時の教室の雰囲気に似ていた。
僕はイラストレーターになる前、グラフィックデザイナーとしてデザイン事務所に勤めていた。話が少しややこしくなるが松田は僕がその会社に入る何年も前、松田が学生の頃にそこでバイトをしていた。僕が入社し2年が過ぎた頃、デザイン業務をメインに担うようになり雑務をこなす人手が足りなくなった。その時に中途採用で良い人がいないかという話になり先輩デザイナーから「松田が良いのでは」という意見が出た。松田は以前ここでバイトをしていたから要領を得ているし、すぐにデザイン作業のサポートにも回れるのではとのことだった。先輩は「松田はグラフィックデザインがめっちゃ好きな奴」とか「○○○(松田がいた会社)にいてCDジャケットのデザインが得意な奴」とか「デザインオタク」みたいな紹介を僕にしてくれた。それを聞いて内心とてもワクワクしていた。なぜならこの職場には「グラフィックデザインめっちゃ好きな奴」がいなかったからだ。

そうして松田が職場にやって来た。僕は松田に業務を色々と教える係に任命された。人見知りな僕にとっては説明役になれたことは幸運で、業務の説明をしながら雑談もしてすぐに仲良くなってしまった。思えば職場で何の気負いも無く雑談(好きなことを喋る)をしたことがあっただろうかと嬉しくなったのを覚えている。席も隣になって勝手に同期が出来たように感じてしまったのだった。
それ以降のことは松田のnoteに正確に記録されている。(よく覚えているなあ。。。でも長話したのは中野坂上のデニーズでは無くジョナサン)

いつだったか松田の部屋に遊びに行った時に見せてくれたArmin Hofmannの“GRAPHIC DESIGN MANUAL”をコピーして綴じた本。もうそれを見ただけで、この人大好きだなと思った。自分の為に作ってるただ好きでやってますというそれが見えてしまったら僕はその人を信用する。それ以外にも書体見本をコピーして綴じた分厚い本や、友達が撮った写真集などそのどれもが自分の為に作られていて怖いぐらい良いと思った。松田は「良いものだから所有したいだけだ」とよく言っていた。その方法が本にするということなのだ。松田の糞にはとんでもなく大事なものが混ざっている。僕はちょっとそれを友達やその周辺の人に見てもらいたくなった。僕の糞と松田の糞が東京という湖に落ちて混ざり合った。一匹の魚が生まれてへきちになった。
(田渕)

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