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2度目の高校1年生

少年は、2度目の高校1年生を始めました。

もちろん、周りは知らない子ばかりです。1年前と同じく中学からエスカレーター式に上がってきた5クラスに、高校の入試をかいくぐってきた3クラス分の生徒が加わり、シャッフルされて新しく8クラスに編成されています。

「中学はどこ?」と当然のように周りの子たちは尋ねてきます。

「同じ学校だった」と答えると、これまた当然のごとく「じゃあ、中学3年生の時は何組だったの?」と聞いてきます。

「え~っと何組だったかな?3組かな~?」と少年が言えば、3年3組だった子が「でも、同じクラスにはいなかったよね」と答えてくるし、「5組だったかな?」と言えば、3年5組だった子が「いや、うちのクラスにもいなかった」と答えてくるのです。

そこで、「クラスは忘れた」と、少年は嘘をつきました。

正確に言えば、嘘ではありませんでした。周りの子たちにとっては、つい2~3週間前のことでも、彼にとっては1年以上も前の出来事なのです。しかも、地獄のような1年間でした。感覚でいえば、10年以上も前のように思えます。

「(1年ちょっと前の中学3年生の時)何組だったか忘れた」という回答自体は事実でした。そんな細かいコト、もはやどうでもよくなってしまっていたのです。

もちろん少年自身、そんな浅はかな嘘やごまかしがそう長くもつとは思っていませんでした。しばらくの間だけでいいのです。長くて数ヶ月。きっと、その間に仲のいい子もできるでしょう。後から真実を知っても許されると思ったのです。


少年の思惑通り、仲のいい子も何人かできました。

それと、もう1ついいコトもありました。1つ下の学年の「空気」を知ることができたのです。なんだか前の学年とは空気が違っています。「意識の差」とでも表現すればいいのでしょうか?

前の学年は「受験戦争に参加している」という独特の思いがみんなの心の底にあり、ギスギスした雰囲気を感じさせました。でも、この学年はなんだか「ゆるい」のです。「本当に同じ学校なのかな?」と不思議に思うくらい、勉強に対する熱心さに欠けていました。

これは大きな収穫でした。「時代の大きな転換点」のようなものを肌で感じることができたのですから。「『詰め込み教育』と『ゆとり教育』の境目」とでも言うべきものを。

もしも、あのまま家に閉じこもりきりであれば、この空気を感じることは決してなかったでしょう。たとえ、後年それを「知識として学んだとして」も、感覚として理解することは一生なかったかもしれません。

逆を言えば、それだけでした。2度目の高校生活で新しい仲間もできたし、それはそれで学ぶこともありましたが、「決定的な差」というのは他には何もありませんでした。

もはや、この学校をいつ辞めてもいい態勢が整ったのです。「マスター・オブ・ザ・ゲーム」に言わせれば、「ゲームのクリア条件がそろった」といったところでしょうか?


両親や、周りの先生たちは「学校に戻ること」を勧めてくれましたが、やはりこの選択には無理があったのです。

少年は学校に戻ってきたことを後悔します。と同時に「それなりに上手く」学校生活もこなしていきます。生来持っていた「環境への適応能力」が、無理やりにでも周りの環境に順応させてしまったのです。

「無理を通せば道理は引っ込む」

環境に合わないのに無理やり順応させようとしたら、人は一体どうなってしまうのでしょうか?


たとえるなら、それは砂漠に住むサボテンを無理やりに引っこ抜いてきて、湿地帯に植えるような行為でした。

サボテンを育てるのに、水や養分はそれほど多く必要ありません。せいぜい霧吹きで軽く水分を与えてやればいいだけ。他の植物を育てる感覚で水や養分をやり過ぎると、枯れてしまいます。

少年の両親がやっていたのとは、それと同じ行為でした。よかれと思って、子供に多くの愛情を注ぎ、高度な教育を受けさせた。でも、それは過度な水分や養分でした。


ところが、少年という名のサボテンは枯れませんでした。

で、どうなったかって?

湿地帯に植え替えられてもなお生き残ったサボテンは…

「魔界の植物」へと進化を遂げたのです!

noteの世界で輝いている才能ある人たちや一生懸命努力している人たちに再分配します。