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ショートショート やがて、世界が海に

 大学に通うために引っ越してきたアパートの近くに海がある、と越す前から知ってはいたのだけれど、いざ歩いて行ってみると本当に海で、今更ながら驚いて堤防に座ってしばらく見ていた。片道20分。歩いて来てよかったと思った。
 春の海は穏やかで、人気もそれほどない。犬の散歩をしている人がいる。少し毛深すぎる小型犬が長い紐に繋がれて得意そうに風を切っていた。

 ここにくるまでに飲んでいたペットボトルの水がちょうどなくなった。あたりを見まわすが、ゴミ箱がない。ふと思いついて、砂浜に降りる。スニーカーが砂に埋まる。波打ち際まで歩いて、ペットボトルに海水を汲んだ。せっかくだから、土産にしようと思ったのだ。スニーカーが濡れるのが嫌で、寄せては返す波と悪戦苦闘した。500mlのペットボトルにほんの少しだけ入れて諦めた。

 アパートに戻って、台所で洗って乾かしていた納豆のパックの中に海水をあけてみる。思った通り、ちょうど入った。砂が随分混ざっている。潮の香りがして、さっきまでいた砂浜を思い出した。たぷん、とパックの中の海が揺れた。まだ生きているらしかった。小さな発泡スチロールの入れ物の中で、寄せて引いて、またたぷん。締め切られたペットボトルの名から出られて喜んでいるみたいだった。私は冷蔵庫から麦茶を出して、飲みながらしばらく海が揺れるのを眺めた。

 次の日も、納豆のパックの中で海は生きていた。たぷん、たぷんと小さな音を立てながら。けれど、ほんの少し、前日よりも元気がないように思われた。思いついて、台所の塩を何粒か落としてやる。たぷたぷと、海が小刻みにゆれた。食べたのだろうか。スマートフォンを取り出して、「海」「飼う」「餌」で検索をする。熱帯魚の写真が多量に出て来た。海を飼おう、と言う人はやっぱりあんまり多くはないらしい。飼育が難しいのかもしれない。インターネットで人口海水の素を注文した。海水魚を飼うための人のものだそうだけど、ただの塩よりこっちの方が喜びそうだ。

 うみがハウスを覚えた。「うみ」というのは海の名前だ。野生のものだから、情を移すのはよくない気がした。だからシンプルに「うみ」と名付けた。わかりやすくていい。納豆のパックと250mlの小さなペットボトルを何度も行き来させてるうちに、うみは自分から率先してペットボトルの口にすべりこんで来るようになった。うみの入ったペットボトルを鞄にすべりこませる。私は毎日、うみを大学に連れて行くようになった。

 大学の机に、うみを置くと、うみが嬉しそうにたぷたぷと揺れる。うみが揺れる音を聞くと、私も嬉しい。お弁当も一緒に食べる。うっかり者の友人がうみのペットボトルに口をつけて飲もうとして、強烈な磯の香りを顔面に浴びた。あの香りが威嚇であることを初めて知った。友人のしかめ面がおかしくて思わず吹き出す。友人が急に真顔になった。
「野生の海なんか飼って大丈夫なの?」
変な質問をするんだなと、その時は思った。私は笑って答えた。
「大丈夫だよ。ほら、こんなにかわいい」

 うみが大きくなっていることには、すぐに気がついた。大学から帰って、250mlのペットボトルから移すと、納豆のパックに入り切らない。慌てて魚の切り身の入っていたパックに中身を移した。前より広い入れ物に気を良くしたうみがゆらゆらと水面をゆらす。心なしか、まえより揺れが波らしくなっているように見えた。食料品の空き容器にばかり入れては可哀想だと思った。もう少し、綺麗な入れ物にいれてやりたい。ステンレスの料理用のバットを注文した。浅くて広い容器の方がうみが喜ぶ気がする。上から波の様子をな眺めるのもいい。たぷたぷとうみが高い波をたてる。お腹が空いたときにやるおねだりだ。外出したせいだろう。小さな袋に入った海水の素をふりかけてやる。あっという間に溶けて、ゆらゆら、満足そうにうみが揺れる。

 ざん、ざざあ、と潮騒の音で目覚めるようになる頃には、うみはもう、アパートの畳一畳分を占拠するようになっていた。廃材置き場で拾って来たコンクリートとかをねるトレイだ。プラスチックの入れ物に浅く広がった海は、もうすっかり波がなんであるかを理解していて、白くて繊細な泡をたてながら、穏やかに行ったり来たりを繰り返している。私がトレイの端から人差し指を差し出すと、さああっと、高い波がやってきて指を包み込む。甘噛みなのかな、と思う。お腹がすくと、来たばかりの時みたいに、たぶたぷと不規則に揺れるので、はいはいと言いながら海水の素を入れてやる。

 当然、もう250mlはおろか、500mlのペットボトルにも入らなくなっていて、学校には連れて行けなくなった。お昼にペットボトルの水を飲む私を見て首を傾げた。
「うみ、どうしたの?」
「どうにも」
 笑って誤魔化した。家の一部を占拠されていることがばれたら、怒られるような気がした。

 ざん。ざざあ。うみは日ごとに大きくなる。
 いつか、風呂場を明け渡すことになるかもしれない。それもいいな、とちょっと思う。毎日、外にお風呂に入りに行ける。湯船を譲って、それよりも大きくなったらどうしよう。部屋を全部のっとられたら。アパート全部がうみになってしまったら。夜にうみに海水の素をやっていると、中に何かが動いているのが見えた。スプーンですくって、目をこらしてみる。魚だ。小さな、魚だった。驚いて私が体勢を崩した瞬間に、身を翻してジャンプした。とぷん、と音をたててうみの中に落ちた。

 それから毎晩、私は魚になる夢を見た。魚になって、うみの中を泳いだ。プラスチックの底には、いつのまにか砂や石や、それからいろんながらくたや珊瑚なんかが積もっていて、私の他にも魚がたくさんいた。イシダイ、アジ、小さなフグ、エイ、ヒラメ。もしかしたらイルカなんかもいるのかもしれない。機嫌がいいとき、うみは私の背中を押してくれる。くるくると、竜巻みたいに泳げる。たまに意地悪をして高い波を立てたり、小さな渦潮を作ったりもしてくる。私は猛然と波につっこむ。疲れ果てる頃には、またもとの穏やかな波に戻っている。

 ちゃぷちゃぷと、顔に水飛沫があたって目を覚ます。うみが高い波を立てている。ご飯のおねだりだ。いつもの袋から海水の素をとりだして、スプーンに救う。ちゃぷちゃぷ。うみが少し乱暴に波を立てる。たたみに飛沫がかかる。もうそろそろ、このプラスチックケースでは限界なのかもしれなかった。スプーンを持った私の手に波がとんでくる。そんなにお腹がすいてるのか。それとも甘えたいのか。いや、ひょっとして、私を餌だと思い始めているのかも。ひどく眠くなる。

 みる夢は、やっぱりもとのうみの夢だ。いつの間にかアパートはすっかりうみの中に沈んでいた。魚の私が玄関を鼻先であける。街もすっかりうみの底だ。銀色の魚の群れがきらきら通り過ぎていく。上から透明な光が筋になってあたりを照らしている。大きな、大きな影が通り過ぎていく。見上げると、ジンベイザメだ。雲のような巨体が、ゆっくり、ゆっくりと折れ曲がって、私の方に近づいて来て、両肩を掴んで、
「起きて!」
と言った。

 目が覚めた。友人だった。私は床に仰向けに寝ていた。身体中、うみの水でびちゃびちゃだった。
「最近、学校こなかったから、心配になって見に来たら、玄関の鍵空きっぱなしだわ、あんたは床で寝てるわ」
 早口で捲し立てる友人は泣いていた。
「ごめん、ごめん」
 何が起きているか、私もよくわからなかったけど、友人を泣き止ませたくて、ただひたすら謝った。
「なにより、あれ」
 しゃっくりしながら、友人がうみのトレイを指す。
「あれなに?」
「……うみ」
気まずい思いで答えた。
「学校にペットボトルで持ってきてたやつ?」
「『学校にペットボトルで持って来てたやつ』」
「こんなに大きくなるの?」
「……うん」
「捨てよう」
友人がうみのトレイを持とうとした。ちゃぷん、と波がたった。あわててとめる。
「やめて。うみが怖がってる」
友人がトレイから手を離して、私を見て、言った。
「食べられそうになったくせに」

 食べられそうになった。
 その通りかもしれない。このまま大きくなり続けたら、きっと私はうみに沈められていただろう。
「うん」
 と小さく頷いた。
「ごめん」
 と友人が言った。

 それから友人の車に乗せてもらって、ポリタンクを買って来た。多分まだ一つで足りるはずだ。蓋をあけて、アパートのうみのトレイにむかって「ハウス」と言う。うみがするりとポリタンクの中に入った。少し胸が痛んだ。
 一人ではもちあげられないほど重くなったうみを、今度は友人の車の荷台にのせた。日はもうとっくに落ちていて、空には星が出ていた。

 また、あの浜辺までやってきた。
 夜の海は一層穏やかで、けれど少し凶暴な気がした。
 友人と二人で、海岸線までポリタンクを運ぶ。
 蓋をあけて倒す。うみが、おずおずと顔をだして砂浜に染みていった。
「おかえり。海だよ。ほんとの海」
 うみに向かって言う。ほんとの海ってなんだろう。我ながら少し変なことをいっているなと思った。
 ポリタンクが空になるまで、友人と見守った。夜風が冷たかった。
 ひっくり返して、最後の一滴を落とすと、二人してうなずいて、海に背を向けた。
「落ち込んでない?」
 友人が聞いてくる。
「落ち込んでないよ」
 笑って答える。
「あやうく、食べられちゃうとこだったからね!」
 ほんとは、食べられてもよかったのかもしれない、と少し思った。トレイを飲み込んで、アパートを飲み込んで、街を、世界をうみが飲み込んで。
 くしゃみが出た。ずぶ濡れだった髪が乾いて、すっかり冷えてしまった。
 背中では海が静かに鳴いていた。

ショートショート No.556