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エッセイ 退屈で意地悪な私たち(映画『イニシェリン島の精霊』感想※ネタバレあり)

※このエッセイは映画『イニシェリン島の精霊』のネタバレがあります。情報を入れたく無い方は読まないでください

 人の顔の見分けが下手な方です。
 なんだか、ふわーっとしか覚えていません。外出中に「あ。〇〇さんだ」と思って通りすがりの人をじーっと見ていて、結局違う、ということが結構あります。

 そんなわけで、俳優さんの顔の見分けもあんまりつかなかったりしますが、バリー・コーガンはつきます。アイルランド産まれの俳優さんです。

 初めてこの方を見たのは、「アメリカン・アニマルズ」です。

 この映画が実際の犯罪事件をもとにしていたせいもあるかもしれませんが、なんだか、リアルな人だなあ、と思ったんです。きれいだとか、かっこいいと言う感じではなく、スクリーン越しに体温や湿気を感じるような、存在感のある人だなあ、と。クラスや会社にひとりはこういう人いるよなあ、みたいな感じ。

 似ているなあ、と思うとじっと見てしまうので、この人が出る映画はずっとこの人ばかり見ています。

『イニシェリン島の精霊』を見てきました。エンターテイメント性の強い映画ではないのに随分混んでいました。人気があるようです。

 バリー・コーガンは「ドミニク」という若者の役で出ていました。島の人に嫌われている設定でした。『本人には悪気はないんだろうけど、ずっと一緒にいるのはちょっと嫌かもしれない』という感じがリアルだなあ、と思う所以です。こう言う人は結構身近にいると思う。

 主役はドミニクではなく、パードリックというおじさんです。毎日一緒に島のパブに行っていた「コルム」というおじいさんに一方的に絶縁を申し渡される話です。

※以下ネタバレを含みます。

 『退屈な』パードリックとのお喋りより、音楽と思想に時間を使いたい、というのがコルムがパードリックに絶縁を申し渡した理由です。自分に話しかける度に指を切ってお前に送りつける、とまで宣言します。(楽器がひけなくなるかもしれない指を切り取るのは、『パードリック自体は悪く無い』という彼の良心の呵責からのように思われます。)芸術家。パードリックの自宅の壁の黄色や、縛られた椅子や、日本趣味がなんとなくゴッホを思い起こさせます。切り取るのは耳じゃなくて指ですけどね。

 一方、絶縁を申し渡されたパードリックは、コルムの気持ちが一向にわからないように見えます。なにか工夫すればもとの関係に戻れると思っている。彼が頑張れば頑張るほど事態は悪化し、コルムの気持ちがパードリックに伝わるのは絶望的に見えます。

 「芸術なんてなんだ。俺はいいやつだ」(どう言っていたか忘れてしまいました。かなりいい加減です)というようなことを酔ったパードリックはコルムに言い、コルムは本当に指を切り落とし、事態はさらに悪化。パードリックは「いいやつ」をやめてコルムに害をなすまでになりますが、なんていうか、一筋縄ではいかない、残酷な映画だと思います。

 一見、「芸術家とそれをわかってあげられない小市民」みたいな話に見えるんですが、そもそもパードリック自体がもともと「いいやつ」じゃありません。

 コルムに嫌われた最初の夜、パードリックは「島で一番愚かなのは俺か?」というような話を妹のシボーンにしてうんざりされます。彼の見解では島一番の「愚か者」はドミニクです。『島1番の愚か者は俺じゃなくてドミニク』。こんな話をしだす時点で「いいやつ」じゃない。

 コルムにしてもそうです。パードリックから解放された彼は実際に音楽を奏で、自分の新曲を完成させますが、どうも正義としては描かれていないように見えます。主役でもないですしね。ゴッホを想起させるような露骨な狂気は好ましさをもって描かれてはいないと思う。「指って切る必要あった?」と映画館を出る時言っていた人を見かけました。確かに。彼に同情できる人とできない人がいるような気がします。

 「同情」か。残酷なのはここだと思う。見ている私たちって、彼らに同情したりする側なんだろうか。

 「この島の人はみんな退屈」だと、パードリックの妹、シボーンは言います。シボーンは非常に聡明な女性です。作品中何度もコルムに「お前なら俺の気持ちがわかるはずだ」と言われています。実際彼女も兄のことを「いい人だけど退屈」と考えており、最終的には兄を見捨てて島を出てしまいます。

「お前は、意地悪だな。いいやつだと思ったのに」(ちょっと台詞ちがうかも)とパードリックにいったのはドミニクです。彼も最終的にはパードリックを見放します。

 ここでひとつわかることがあります。コルムやパードリック『じゃない』島の人たちは皆、シボーンやドミニクにとって『退屈で意地悪』ということです。

 コルムたちの事件を静観している島の人たちはみな『退屈で意地悪』なんです。芸術家でも、特別愚かでもない人たちはみんな『退屈で意地悪』。

 作品の中でシボーンの動きがちょっと気になって(突然きっぱりと島を出ると言い出したり、『行き遅れ』と言われた晩になぜか今更泣いていたり)誰か書いているかなあ、と映画評をみていたら『この映画の、閉鎖的空間で起こる憎しみの連鎖はSNSの中での争いみたいだ』という論旨のものがありました。

 SNSか。そうかも。そういうこともたまにあります。そして、私が思うに、SNSの揉め事を見ているとき、私たちはだいたい傍観者です。
 この映画を見ている私たちも。その他大勢の島民たちも。

 絡まれるほどの芸術家でもなければ、絡見続けるほどの強い意志を持った愚か者でもありません。もちろんわざわざ火の粉を浴びに行くほどいいやつでも無い。『退屈で意地悪』な傍観者です。

 映画の中では『イニシェリン島の精霊』は島の伝説の精霊で、人の死を嘲笑って、ただ見てるんだそうです。積極的に何かをなすでもなく、ただ見てる。
「俺はあんな風にはならないよ」「いやそういいうときもあるって」とかいいながら。

 私たちはたいてい『そっち側』で、そのことに気づきもしない。『退屈で意地悪』な方なんです。それがきっと現実で、そういうのが淡々と描かれてしまうの、リアルで、残酷だなあ、って。

エッセイNo.36


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