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掌編小説 「こほん」(#シロクマ文芸部)

 咳をしても金魚。あくびをしても金魚。くしゃみをしても、例え喋っても。
「こほん」
 というかすかな音を、ボウスは見逃さなかった。宿題の手がとまり、机に座ったまま吾輩の水槽を見た。目がまん丸に見開いていた。
「こぽん」
 吾輩は素知らぬ顔であぶくを吐いてみせた。気のせいだ、そう思わせなければなるまい。すでに浮袋の空気は残り少なく、泡を吹くのも骨が折れたが、怪しまれるわけにもいかない。ボウズは目を離してくれる様子がない。
 くるりと金魚鉢を一周する。もう一泡、泡を吹こうとして。
「がぶがぶ」
 盛大にむせた。吐く空気が残っていなかった。ただでさえ咳がでるほど調子が悪いのに。ボウズが立ち上がった。まずい。非常にまずい。あわてて水をのみこむ。息を整える。
「畜生」
 思わず呟いてしまった。すぐ目の前にボウズのニキビだらけの顔があった。
「喋った?」
 ボウズが大きな声を出す。これ以上ボロは出すまい。無視した。
「金魚のくせに、喋った!?」
「喋って何が悪い。失礼なボウズだな」
 腹が立った、と思ったときにはもう反論していた。ボウズがひい、と声をあげた。なにやらあわてて探し出した。
「そもそもお前だって喋るだろう。どうして吾輩が喋ってはいかんのだ」
「あった!」
 吾輩の言葉を完全に聞く様子のないボウズがようやく見つけたスマートフォンを手に取った。吾輩に向ける。
「も一回!」
 ぴたりと口をつぐんだ。ボウズの魂胆はわかっている。吾輩のこの美声を録画して朝な夕な眺めるつもりなのだ。結構な心がけだが、無礼者にそこまでしてやる義理はない。
「もう一回喋ってよ!」
 ボウズが悲痛な声をあげた。断る代わりにくるりと回転してやった。
 ボウズがふんと鼻をならす。吾輩から目をそらさないまま、また机に座り直した。ゆっくりと、スマートフォンを机におく。
「じゃ、オレ勉強に戻るわ」
 不服そうにボウズが言った。机に目を落として、またちらりとこちらを見た。
「ご自由にしてていいよ」
「こぽり」
 返事代わりに泡を吹いた。ボウスが少し嫌な顔をした。
 かりかりと、鉛筆の音が響く。さっきより幾分か大きな音になった気がした。
「オレさ」
 ボウズが机から目を離さないまま喋りだした。
「学校で、嫌われてるんだよね。つまらないやつなんだって」
 またちらりとこちらを見る。
「喋る金魚、なんて動画を持っていったら、きっと人気者になれるのになあ」
 そうであろうな。吾輩の美しい姿なんぞ収めたら、皆一斉に虜になるであろう。
「はああ。喋ってくれないかなあ、金魚」
 ボウズがわざとらしくため息をついた。吾輩としては、もう二度とあのような失態を晒す気はない。観念したのか、ボウズがまた静かになった。カリカリ。鉛筆の音が響く。
「ああああ!」
 突然ボウズが鉛筆を放り投げて頭を抱えた。
「どうせオレは金魚にすら相手にされないんだあ!」
「『金魚にすら』とか言うのはやめろ」
 ボウズが素早く机のスマートフォンを手に取る。吾輩は口をつぐむ。
「喋れるじゃん! 喋ってよ!」
「自分が人気者になりたいからって、いたいけな金魚を利用しようとは浅はかだな」
「そんな音声録ってもみんなに見せられないよ!」
「そもそも、そんな人気は仮初のものだ。飽きたら嫌われ者に逆もどりだ」
「気にしてることすらすら言うな」
「無礼な。お前が喋れと言ったんだろが」
「いいよ。もう」
ボウズがスマートフォンを机に置いた。
「どうせ、つまんないやつだよ。俺は」
「面白かろうとつまらなかろうと、ボウズはボウズだろう」
「なんだよ。トドメさしたいのかよ」
「放っておいたらよかろう」
「無駄だってことか」
「まあ。そうだな。何やってもボウズはボウズにしかなれんからな」
「いいこと言おうとしてる?」
「喋っても、咳をしても、金魚は金魚だ」
「自分の話かよ」
ボウズが呆れたように言った。じっと、吾輩をみつめる。
「もういいや」
ボウズがベッドに横になった。
「動画、撮らないでおいてやるよ」
それは結構。吾輩も眠ることにしよう。くるりと金魚鉢をまわって眠る準備をしようとすると。
「こほん」
また咳が出た。

ショートショート No.602

小牧幸助さんの「#シロクマ文芸部」に参加しています。
今週のお題は「『咳をしても金魚。』から始まる小説や詩を書く」です。