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最遅本命発表~有馬記念編~

「何で競馬なんかするの?」

そう言って、俺の元から去って行った一人の女がいた。

人生設計などという高尚な地図を書いたことはないが、何となく自分もこのままこいつとあと何年か付き合って、やがては結婚するのかな、なんてことを考えたりはしてた。

競馬が趣味であることを隠していたつもりはなく、同時に自分からわざわざ告げることでもなかろうと思っていたが、ある日ひょんなことから俺が競馬に興じていることを知った女は去って行った。

曰く、かつての父親が競馬と酒狂いで自分と母親に暴力を振るっていたようで、ギャンブルをする人間のことは無条件で軽蔑しているらしい。

実に馬鹿馬鹿しい話である。
酒と競馬が女の父親を駄目にしたのではない。元から駄目だった父親がたまたま酒と競馬を好きだっただけの話だ。よくある、「●●容疑者はアニメ好きだったことが発覚」的な報道でアニメ界の印象を悪くする、あれか。競馬ファンというだけで勝手にクソ親父の幻影を重ねられ、女に出て行かれたこっちの身にもなれ。

怒りと虚無感を足して二で割った、名前の付けられない感情に覆われたまま、ふと考えた。

“でも、確かに何で俺は競馬なんかしてんだ?”

動機を言語化するのって、地味に難しい行為だと思ってた。
そりゃあまあ、「趣味だから」で何でも片付けてしまえば話は早いんだが、鋭利なナイフのような冷たい視線で俺を見て去って行った、あの女が欲していたのはそういう答えではないだろう。

誰にだって、思い思いの趣味ぐらいあるだろう。
でも、何故その趣味を趣味にしているのかという問いかけはシンプルだが奥深い。

何となく、モヤモヤをそのままにするのも癪だった。
交友関係の狭い俺は、自分の携帯の電話帳に記載されたわずかな友人達に片っ端から連絡を入れ、奴らに尋ねてみた。何故、お前はそんな趣味をしているのか、と。


俺には友達が少ない。
だが、その分つるんだ仲間達は往々にして個性の強いくせ者揃いだ。


まず一人目に連絡したのは、「大ちゃん」というニックネームで親しまれたかつての学友だ。
簡単に大ちゃんを紹介すると、デブで若ハゲ。彼女いない歴=年齢の救いようのないクソ野郎だ。

だが、大ちゃんには誰にも負けない強みがあった。大ちゃんは「昆虫博士」なのだ。男たるもの、昆虫にロマンを感じる時期を絶対に経験するものだ。大ちゃんは大人になってもそんなロマンを忘れることなく、今でも休みの日には昆虫採集に出掛け、あるいは謎のペットショップで珍妙な昆虫収集を欠かさない。

そして俺は大ちゃんに聞いたのだ。

「大ちゃんは、何で昆虫なんか集めてんだ?」

と。

余談だが、俺はこの世からの絶滅を願うくらいには虫が嫌いだ。


そして、大ちゃんの返答を聞いた俺は二人目の友人に連絡をした。
奴の名は、「モーガン」。学生の頃、色が黒かったという理由だけでモーガン・フリーマンといじられ、そのままモーガンというあだ名が定着してしまった哀れな奴だ。今のご時世、テレビでは語れないエピソードだが、こんなnoteにコンプライアンスなど無い。そんなものは煮て焼いて卵で閉じて犬にでも食わせておけばいい。

モーガンは昔から人に話しかけられると盛大にドモり倒す癖があり、世の自称コミュ障たちは全員モーガンに土下座して詫びた方がいいと思えるほどのコミュ障だった。でも、そんなモーガンが光り輝く瞬間があったのだ。

モーガンは昔から、ダンスダンスレボリューションの達人だった。一時期大流行した、通称ダンレボだ。仲間同士でゲーセンに行き、あのステージに立った瞬間、いつものドモりのモーガンはどこかへ姿を消す。そこにいるのは、ゲーセン中のギャラリーの注目を独占するトップダンサーモーガンだった。巷では「立川のマイケル・ジャクソン」と彼を呼ぶ者もいたそうだ。

今でも週末は欠かさずゲーセンでダンスダンスレボリューションで汗を流すモーガンに俺は聞いた。

「モーガンは、何でダンレボなんかやってんだ?」

と。

余談だが、ダンレボをプレイした後のモーガンの体臭が本当にキツイため、俺は二度とこいつとゲーセンには行かない。


最後に、三人目の友人だ。
もう俺の数少ない友人ストックの残機はゼロに等しい、俺が最後に連絡をしたのは「チャゲ」というかつての悪友だ。本名が「アスカ」という名前だったが故に、いつからか「チャゲ」と呼ばれるようになった、気の良い奴だ。

チャゲは外見は悪くないのだが、ワキガイチ武道会を開催したら100年連続で優勝は間違いないと確信できるレベルのワキガだったため、学内の全女子から敬遠されていた哀れな男だ。
だが、本人はその匂いを全く自覚できないらしい。そして、誰よりも匂いに鈍感な男かと思いきや、こいつは昔から世界各地の珍しいハーブティーを嗜む、高貴な趣味を持っていた。

前にチャゲの家に遊びに行った時、チャゲの部屋には紅茶に疎い俺でも魅了されるような素敵な香りに満ちていた。だが、チャゲが部屋に入ってくると部屋の中にはチャゲの匂いしかしなかった。チャゲが退室するとまた、部屋はかぐわしい香りに包まれた。
あれから時は流れたが、今でもチャゲはハーブティー収集を欠かさずに続けているそうだ。

そして俺はチャゲに聞いた。

「チャゲは、何でハーブティーなんか集めてんだ?」

と。

余談だが、初めにクラス内で誰かがワキガだと女子たちが騒ぎ始めた時に濡れ衣を着せられたくなかった俺は「犯人はアイツだよ」とチャゲがワキガであることを女子にバラした。


かくして、三人の個性が強すぎる友人達への問答を俺は終えた。

「何で競馬なんかするの?」

そんな問いかけ一つを残して去って行った女への未練を拭う為に、急遽時間を設けてくれた三人の友人達にはこの場を借りて感謝の意を示したい。


三者三様のマニアックな趣味を持つ、精鋭達に投げかけたシンプルにして深い問い。
どんな珍妙な回答が得られるのかと俺は期待していたが、奴らの解答は意外なまでに一致していた。

“その楽しみの為に生きてんだ”

変態じみた趣味を持つ、三人は口を揃えてこう答えた。
この答えを聞いた時、自分は何故こんな簡単な答えをあの時口にできなかったのだろうかと恥ずかしくなった。

昆虫採集。ダンレボ。ハーブティーマニア。

どれも一般的に広く受け入れられている趣味ではないし、正直に趣味を話せば笑う人もいるだろうし、敬遠する人だっているだろう。
言ってしまえば競馬だってそうだ。軽蔑するような目で俺を見て去って行ったあの女のように、競馬をしているというだけでろくでなしのレッテルを貼る人間は必ずいる。

でもさ、三人のバカな友達は自分の愛する趣味を恥じることもなく堂々と言った。

“その楽しみの為に生きてんだ”

ああ、探していた答えは何とシンプルだったのだろうか。

人生には、「なくてはならないもの」「なくてもいいもの」がある。

競馬も、昆虫も、ダンレボも、ハーブティーも、全て人生においては「なくてもいいもの」だ。極論を言ってしまえば、食うに困らぬ金さえ稼げていれば他の一切は「なくてもいいもの」にカテゴライズすることができる。

が、俺は思う。

「なくてはならないもの」だけで構成された人生は、ひどく退屈で仕方がないものであるだろう、と。

もっと言えば人生の価値とは「なくてもいいもの」がいかに充実しているかによって、決定的に左右されるのだ。

水や酸素が無ければ人は生きていけない。

だが、「水や酸素があるから頑張って生きよう!」とまだ見ぬ明日に希望を抱く人間はどこにもいない。


競馬が無くとも人は生きていける。

だが、「週末の競馬が楽しみだから頑張って生きよう!」とまだ見ぬ明日に希望を抱く人間はゴマンといる。


人生における「なくてもいいもの」だったはずなのに、ある意味では「それがあるから生きられるもの」へと変わる瞬間があるのだ。

昔、自ら命を絶ったかつてのクラスメイトがいた。
特別に親しかったわけではないのだが、何が彼をそうさせたのだろうかと自分の中で悶々とする時期を過ごしたことがある。

こうしたセンシティブな話題に自ら触れることはしないゆえ、ここに書くことも一個人の戯言と思って読んで欲しい。

思うに、自ら命を絶つ人間は決して死にたくてそうしている訳ではないと思うのだ。
抱えている痛みや苦しみから逃れる為の手段として他の方法が見当たらず、最後の手段としてそうした手段を選んでしまうのではなかろうか。


明日にでも命を絶とうとしている人間がいたとして、

「あなたが今悩んでいることを、魔法で全て解決します。それでもあなたは死を選びますか?」

という選択肢が与えられれば、きっと生きる道を選ぶ人は多いはずなのだ。
だからこそ、どこにも逃げ場を見つけられずに死んでしまった人に対し、「自殺は良くない!」「残される人間の気持ちを考えて!」と、絶対的な正義を振りかざすことに意味はないと俺は思う。


俺は、かつてクラスメイトの訃報を聞いた時に思ったことがある。
何かのきっかけで、俺があいつを競馬でもパチンコでもなんでもいいから、しょうもない遊びに誘うことでもあれば、未来は変わっていたのだろうかと。

高尚な趣味でなくとも、何でもいい。
人生における「なくてもいいもの」だとしても、些細な楽しみが彼にとっての「それがあるから生きられるもの」に変わってくれていたら、違う未来は訪れていたのではないかと考えることがあるのだ。


誰にだって、どうにもならずにふと消えてしまいたくなる瞬間はある。俺だって、例外ではない。

こんなnoteを読んでいるあなたにだって、考えるだけで気が滅入っちまうようなめんどくせえことがたくさんあるはず。それこそ、全てを投げ出したくなってしまうような。


だから、きっと大事なのはどんなにくだらないことでもいいから、自分の人生における「なくてもいいもの」を、「それがあるから生きられるもの」に変えることなんじゃねえかな。

それが昆虫採集でもいい、ダンレボでもいい、ハーブティーでもいい、そして競馬でもいい。

未来に待つそれの為に、仕方なくこのダルくてめんどくさくてクソみたいでしょうもない毎日を生きてやろうかと思えるような、「それがあるから生きられるもの」を誰もが見つけることができれば、きっと多少は生きがいのある毎日になるんじゃないかって、偉そうなことを言ってみる。


少なくとも、俺は有馬記念を見届けるまでは死にたくねえし、もっと言えば武尊VS那須川天心を見届けるまでは何があっても生きるよ。

だって、それが俺にとっての「それがあるから生きられるもの」だから。

はあ、もう何度も「それがあるから生きられるもの」って打ち込むのめんどくさくなってきたよ。

読んでる人だって何回言うねんこいつって思い始めてるよ、きっと。

何かもっとコンパクトかつスマートな言葉で言いかえることはできないかね、「それがあるから生きられるもの」っていう抽象的でわかりにくいこの言葉を。

あ。

あったわ、一つだけ。

「それがあるから生きられるもの」ってつまり、

“幸せ”

ってやつじゃん?

ああ、ここまで長文をグダグダと書いてきてやっとスッキリまとめることができそうだ。

このnoteの書き出し一行目に書いた、クソ女からの問い。


「何で競馬なんかするの?」


こんな場で答えることになるとは思わなかったけど、ようやく言えるよ。


競馬が俺に幸せをくれるから俺は競馬してんだわ。

人生における「なくてもいいもの」改め「それがあるから生きられるもの」って、“幸せ”って名前だったんだな。

大ちゃんにとっては昆虫採集が、モーガンにとってはダンレボが、チャゲにとってはハーブティーが。

自分を幸せにしてくれるものなんだよ。だから人生に欠かすことができねえんだよ。


誰かから見れば死ぬほど無価値なものも、誰かから見れば生きる理由に値するかけがえのないものなんだ。

このnoteを読んでる皆もさ、言っちゃ悪いが冴えない毎日を過ごしてる奴らばかりだろう。

ああ、俺もそうだ。忙しく働いて、疲れ果てて泥のように眠り、やっと迎えた週末にすることと言えば競馬三昧。

とてもじゃないが、高尚な生き方とは言えないだろう。だが、そんな人生の何が悪い。

かっこ悪いかもしれなくたって、俺は競馬が好きになってからの日々が幸せだよ。

勝った負けたを繰り返して、トータルはやっぱり何だかんだで負けに落ち着いて。

でも好きな馬について語り合ったり、好きな馬に声援を送る時間が最高に楽しくて幸せだ。


だから皆、競馬を愛する自分を誇れ。

人生の成功者ぶって、お前を笑う奴に出くわしたら、心の中で笑い返してやってくれ。

“お前の中の俺は不幸だとしても、俺の中の俺は最高に幸せだ”

と胸を張れ。

そして泥臭くとも不格好に、このしょうもない毎日を生きよう。

土日になれば、俺たちの大好きな競馬が俺たちに幸せを運んできてくれるから。

ま、馬券は当たらんと思って買った方がいいけどな。

…ずいぶんと長くなってしまった。


「幸せについて本気出して考えてみた」なんて歌が昔あったけど、多分俺の方が本気出して考えたわ馬鹿野郎。

「幸福論」なんて歌もあったけど、その歌を歌ってた人と結婚したくて生きてた時代もあったな。

ふう、俺みたいなろくでなしが一丁前に「幸せ」について講釈垂れる日が来るとは世も末だ。

そういえば、有馬記念の本命発表する為に書き始めたnoteだってことを今思い出した。


来たる2021年12月26日。

中山競馬場にて行われる、有馬記念。

本命は、エフフォーリア。


ギリシャ語で「幸福感」を意味する馬名を授かった、この馬を本命とさせて頂く。


こんな長ったらしいnoteを楽しみにしてくれている人がいたり、しょうもないツイートにリプやイイネをくれる人がいたり、競馬に出会って僕の人生は変わりました。競馬に出会えて、僕は幸せです。例えこのレースがどんな結果になろうとも、全ての競馬ファン達へ、幸あれ。

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