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大根の淡味と『剣客商売』

青首なら輪切りにする。煮えやすいよう、食べやすいよう、幅は3センチくらいにして、片方の切れ口に十文字の切れ込みを入れる。太い三浦などであれば、適当な大きさに切る。青首でも三浦でも、皮は厚めにむき、できれば面取りをする。
済んだら鍋に入れ、真昆布の出汁をひたひたに注ぎ、少量の生米を放り込んで煮る。
たれは米味噌に砂糖、酒、みりんを加え、焦がさず、煮詰めてつくる。

煮えたら大根を皿に取り、味噌だれをかけ、私はさらに粉山椒をふりかけて食べる。大根料理はだいたい山椒と相性がいいらしいが、私が山椒をかけるようになったのは、池波正太郎さん作『剣客商売』の真似だった。
「約束金二十両」(『剣客商売 四 天魔』所収)の終わりのほうに、こんな場面がある。

薄目の出汁を、たっぷりと張った鉄鍋の中へ、太兵衛が持って来た大根を切り入れ、これがふつふつと煮えたぎっていた。
「さ、おあがんなさい」
「これは、これは……」
「その小皿にとって、この粉山椒こなざんしょをふったがよい」
「こうしたらよいので?」
「さよう。さ、おあがり」
ふうふういいながら、大根を頬張った太兵衛が、
「こりゃあ、うまい」
嘆声を発したのへ、小兵衛が、
「そりゃあ、平内さん。大根がよいのだ。だから、そのまま、こうして食べるのが、いちばん、うまいのじゃ」
「こ、こんなものを、わし、食うたことない」
「まさか……」
「食うたこと、あるやも知れんが、忘れてしもた」

(池波正太郎「約束金二十両」『剣客商売 四 天魔』新潮文庫)

雲弘流うんこうりゅうの名人・平内太兵衛重久ひらうちたへえしげひさと主人公である老剣客・秋山小兵衛あきやまこへえが、小兵衛宅の囲炉裏で語り合って、酒をやりながら大根を味わう。大根はどんな品種のものかわからないが、太兵衛が持ってきた手土産であり、それを薄めの出汁で煮て、粉山椒をふりかけるだけで食べるのだ。その味のうまいことに、太兵衛は感嘆する。

読んでいると、相当うまそうな料理に思えてくるが、このときの小兵衛の出汁がどのようなものだったかは、「薄目」としか書かれていないから、本作に語られる範囲では、それ以上のことはわからない。もしかすると、ほかの話に出てくる大根鍋だいこなべの一種かもしれないし、出汁に酒やみりん、塩・醤油などを少しばかり加えているかもしれない。調味料なしでは、やはりぱっとしないのではないかとは思う。
ただ、仮に出汁だけだとしても、「だから、そのまま、こうして食べる」と小兵衛がいっているのは興味深い。薄目とはいえ、出汁で煮たうえ、粉山椒をかけて食べるのに、「そのまま」というのである。

和食、とりわけ精進料理では、甜(甘)、苦、辛、醋(酸)、鹹(塩辛さ)、淡を「六味」と呼び、その調和を大切にするという。
この六つのうち、「淡味」は、ほかの五味とはいかにも性格が違いそうだが、それはそのとおりで、その食材がもともと備えている味、持ち味のことだと理解されることが多いようだ。調理する人は、それを最大限に生かすよう心掛ける。文字からすれば薄味を指しそうに見えるけれども、違うらしい。
小兵衛のいう「そのまま食べる」とは、この淡味を味わうことなのだろう。食材が元来備えている、本来の味と思えるような滋味に着目し、それを味わう。そこには甘味も、辛味も苦味もある。「薄目の出汁」や粉山椒は、そのための工夫にほかならない。

ともあれ、そのような淡味が、隙なし油断なしの達人を、たばかるのでなく正面から驚かせたのだから、通快でもある。十日ほど前の立ちあいで、「剣は?」と小兵衛にきかれた太兵衛は、「おぬしの剣を奪って、勝つ」と返したが、そのことも思い出されて、いっそう面白い。手土産として自分が持参した大根に完敗させられたともいえ、それは小兵衛ならではの、じつに粋の利いたもてなしだった。

しかし私の場合、濃い味に慣れたせいか、薄めの出汁煮に粉山椒をふりかけただけでは、物足りなかった。それで昆布だけで煮て、味噌だれをかけ、さらに山椒をかける食べ方に落ち着いているのだが、これはこれで、私なりに大根の淡味を探った結果ではあった。ただし結局はどうも、淡味がどうのといいながら、回りまわって振出しに戻ったような、そんな気がしないでもない。長年親しんだ味の呪縛は強い。


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