運動
少年院には「体育」と「運動」がある。
一般的にはそこまで違いを意識しなくてもいい言葉だけれど,少年院においては「体育」と「運動」は明確に違う。
簡単に言えば…
体育は課題で
運動は権利だ。
体育は仕事で
運動は趣味…とも言える。
法務教官の側からすると…
体育で手を抜いてたら指導できるけど,
運動の取組姿勢はその対象ではない…
ということでもある。
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1)塀の中の人権の確保
少年院は罰ではなく矯正教育を授ける場所。
罰としてタダ働きが科される(=懲役刑)刑務所と異なり,少年院の場合,アフター5や週末も教育的な活動が行われる。
教育の対象には…
学力や道徳的なものはもちろん,生活習慣や対人コミュニケーションなども含まれており…むしろそっちがすべて教育の基盤とも言える。
したがって,日常のあらゆる場面で教育的な働き掛けが行われるわけだが…
もちろん…
24時間365日,少しの休みもなく時間割が詰まっているわけではない。
毎日少なからず…少年たちが自由に使い方を決められる時間はあるし,それは彼らの権利として保証されている。
少年院の中でできることは限られているが…それでも読書や新聞の閲覧などを自由に行うことができる余暇時間は彼らにとってとても大切なものだ。
そして「運動」も…
そうした彼らの「権利」に属している。
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2)「運動」は権利
少年院は施設がら…
基本的にすべての建物の出入口に鍵がかかっている。彼らが自由に出入りすることはできない。
だから必然的に,屋内で過ごす時間が多くなる。
心身の健全な育成を志向する矯正教育において…屋内で過ごすばかりの状況は決して望ましいものではないし,身体を動かして汗をかくことは精神衛生上も大切なこと。
「運動」は,それらの観点から設置された,彼らが屋外で自由に身体を動かすことを許される時間だ。
だから
指導の一環で行われる「体育」とは位置づけが全然ちがう。
「運動」は,少年たちが各々の判断で取り組み方を変えられる。参加しないことも可能だ。
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刑務所に「体育」はない。
刑務所では…
「運動」の時間は確保されているものの,指導を目的とした「体育」が行われることはないのだ。
反対に少年院では…
古来,「体育」だけが行われていた。
とはいえ…
世間でよく想像される理不尽な軍隊式の体育と,少年院の体育の実際は,大きくかけ離れている。
詳しくはこちら↓を参照してほしい。
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3)法務教官側から見た「運動」
少年院で「運動」が導入されたのは比較的最近…「古参の体育」と「新参者の運動」という構図だ。
だから現場の人間の中では…
体育>運動
というイメージになりがち。
でも…
法律をよく読むと,体育よりも運動の方が位置づけとしては重い。…少なくとも僕の解釈では。
なんらかの事情で日課を変更せざるを得なくなった場合…体育を中止にしても大した問題ではないが,運動をなしにするのは結構大変だ。
法令上,少年院では最低週2回以上,運動の機会を付与することになっている。
(体育と運動で結果的にほぼ毎日身体を動かしている。)
運動の時間を週2回以上確保できない場合,その少年院は法令違反に問われる可能性が出てくるわけだ。
だから少年院では,運動の時間を確保することに結構な神経を使っている。
体育を運動に変更することも,少なくはない。
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体育を運動に変更するということは…
積極的に動機づけして効果的なトレーニングを行うはずだった時間が,「どれだけだらけてても文句を言えない時間」に変わる…ということ。
とってもざっくり言えば,指導のチャンスが減るということ。
体育だけをやっていた時代に比べると…少しやりにくいのだ。
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4)実際何をやってるの?
「自由に身体を動かせる」とは言っても,当然,何でもできるわけではない。
施設によって具体的な状況は異なるが…大抵の施設では運動で使える範囲や種目をある程度定めている。
例えば…
「トラックを反時計回り」というルールだけは統一していて,あとはウォーキングをしてもダッシュをしても持久走をしてもいい
という感じだ。
その取り組み方は少年自身が決める。
もちろんそもそも参加しないこともできる。
施設によっては縄跳びやボール運動(フットサルなど)も用意している。
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5)へいなか的見解と指導の切り口
運動は彼らの権利。
だから…
ダラダラ歩いているだけだとしても「サボっている」にはならないし,筋トレと称してただ寝転がっているだけでも認められる。
ただし…
「彼らの権利だから一切口を挟まない」というのは,法務教官の仕事として二流だと僕は考えている。
まず…
「権利だから口を”挟めない”」という感覚が,そもそも理解があまい。
人は,権利として自ら判断した結果だからこそ,批判も自分で受けるんだ。
少年院の制服は決してカッコいいとは言えないものが多いが,その制服を着ている彼らに「お前その制服ダセぇな…」なんて批判したら,とんだ的外れだ。
制服を決めているのは彼らじゃないんだから。
でも…
自分で選んだ服がダサかったのなら,それをダサいと言われても仕方がない。(もちろん,面と向かってそれを言っちゃうのは,マナーとしてどうかとは思うけれど)
要するに
自分で選んだ行動だからこそ,
そこにこちらの評価を伝える余地はある
というのが僕の見解だ。
だから
運動の時間にダラけてたら,僕は平気で声をかける。
「ダラダラ歩いてたけど何してんの?」とか。
別にダラダラしてたことを成績に反映させるわけじゃないし,全否定するわけでもない。
ただ…
追い込もうと思えば追い込める時間を無為に浪費した者に対して,「お前の人生設計的に,その振る舞いは適切なのか?」と問いかけるだけだ。
だから最後は決まっている。
ま,お前がそれでいいんなら,いいんじゃね?
俺は,人が手を抜いてる時に努力すうる奴じゃないと望む人生にはたどり着かねぇと思うけどな。
自分の決断の代償は,自分の人生で払えよ。
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運動は彼らの権利だ。
でもだからこそ…
その時間をどう過ごしていたかをよく見て,彼らが日頃口にしている目標とのギャップを見つけ,指導のきっかけとして積極的に活用した方がいい。
権利だなんだと「ダラける自分を正当化」する人間が,大きな成長を遂げることはない。
自分の権利の中で積極的に自分を鍛える人間の方が,遥かに速いスピードで成長していく。
社会でも塀の中でも,それはきっと変わらない。
限られた時間の中で山程ある問題性を1つずつ改善していくには…「権利だから口を挟めない」なんて中途半端なことを言っている暇などないのだ。
「権利の使い方」こそ,最重要の指導項目だろうと僕は思う。
放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。