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法務教官のむずかしさ,おもしろさ

1)教育の前提条件

法務教官の仕事は,矯正教育。

非行少年の健全育成のために,様々な角度から教育を行うことが使命だ。

だけどこれには前提がある。

「少年院に収容された非行少年に対し」というのがそれだ。

要するに

僕の仕事である矯正教育は「少年院の中限定」で「少年院から逃さないことが前提」ということだ。

僕らは,逃さないよう監視しつつ,教育を行わなければならない。

そして

それが前提である以上,どちらか一方しか選べない場合には,確実に保安を選ばなければならない。それが,教育的にイマイチな選択だとしても。

現場の法務教官は常に,この教育と保安の両立に頭を悩ませている。

背中で語るべきときに,背中を見せられないのが法務教官だ。

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2)教育とはなにか

少年法,少年院法,少年鑑別所法…

法令の中には,法務教官の在り方が示されている。
「慈愛」や「率先垂範」がその代表格だ。

教育とは何か?

その問いに,唯一絶対の正解はないかもしれないが…

家庭教育であれ
学校教育であれ

そして

矯正教育であれ…

その根本は「共に生きる」ことだと僕は思っている。

「子どもと向き合う」のではなく…
「子どもとともに社会に向き合う」のが,きっと教育の本質だ。

だから

僕のような語彙の粗いガサツな人間でも,「慈愛」はともかくとして「率先垂範」には大いに賛同している。法務教官たるもの,率先して行動し,社会人としての範を示すべきだろうと思う。

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3)法務教官の率先垂範

少年院は全国に約50ヶ所。

非行少年の特性によって送致する少年院は変わるから,必ずしも地元の少年院に行くとは限らないし,少年院ごとに日課の内容や体育の雰囲気も違う。

『ケーキの切れない非行少年たち』という本が大変話題になったが,何も全国の非行少年がみなケーキを三等分できないわけではない。

ケーキが切れない子がわりと普通にいる少年院もあれば,介護や熔接の実習を,そこらの高校生並かそれ以上にきっちりこなせる人たちがいる施設もあるのだ。

だから当然,施設ごとに法務教官が示すべき「範」の形もちがうわけだけれど,それでも「ともに汗をかく」という点は共通しているのではないかと僕は思う。

農作業ではともに農具を持って土を耕し
体育ではともにジャージを着て体を動かす…

ともに汗をかき,その合間に交わす言葉の中に,矯正教育の本質はあると僕は信じている。

少なくとも

無表情に監視して課題を示し,罰のように淡々とそれに取り組ませることは教育ではないし…ともに汗をかいてくれる大人の存在が,非行少年にとって必要であることも,まちがいない。

僕は「非行少年だって本当はみんな素直」なんて安直には言わないし,それはまちがってると思うけれど…それでも,ともに汗をかいてくれる大人の存在が,彼らが素直さを取り戻すために重要であることは疑いようがない。

だから

一緒になって耕し,鍛え,汗をかくことが大事。
率先垂範とはそういうことだろうと僕は思う。

率先垂範は矯正教育の根幹だ。
教育の本質もきっと,そこにあるのだろうと思う。

ところが

僕たち法務教官は,ともに汗をかくことを放棄して,保安に徹しなければならないことも多い。

監視役と先生役を,一人の人間が使い分けなければならないところに,この仕事の難しさがある。

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4)法務教官が率先垂範できない事情

男子と女子でその感覚は大いにちがうだろうけれど…少なくとも男子に関しては,ただともに汗をかくだけでなく,真剣勝負で勝つこともまた,矯正教育上とても大切なことだと僕は思っている。

法務教官は,その率先垂範の中で,どれか一個でも彼らに勝つことが大切なのだ。

足の速さでも,鍬の使い方のうまさでもいい…

「一目置かれる」存在になるには,彼らとの勝負に勝つのが一番早い。ともに汗を流せば,彼らはどこかで必ず対抗意識を持つ。あえて勝負だと言わなくても,勝手に優劣を判断する。

そして

彼我の実力差はどこかで必ず尊敬に変わる。僕らは,人間の男であると同時に,動物としての「オス」の部分を残しているからだ。

勝負に負けると,強者に対する印象は変わる。

そして

「こいつの言うことなら聞いてみよう」と思う。

「こいつの言うことなら聞いてみよう」という感覚こそが,更生の第一歩なんだ。

常にすべてにおいて勝たなきゃいけないわけじゃないが…オスとして譲れない自分の土俵を持っている先生の方が,尊敬と信頼を集めていることは事実だし,それは,下手な教授法よりよっぽど効果的なことだと僕は思う。

大人だって,聞きたくない奴の話は基本的に聞かないし,「ぜひ話を聞きたい」と思う人の話なら,金を払ってでも聞くだろう?

だからこそ…ともに汗をかくときには本気でやらなきゃだめなんだ。

本気でやって
その本気さを伝え
できる限り勝負に勝つ。

金や暴力や権力で言うことを聞かせるのではなく,自発的に前向きに話を聞こうという状態を作るために,率先垂範でともに汗をかくことが大切なんだ。

なんとなーく手加減しながら一緒にやっても,そこに大した意味はない。

本気でやって,その背中を見せることに意味がある。あいつらが「くだらない」と言いたくなる瞬間を,言葉ではなく背中で抑えるのが俺達の仕事なんだ。

だけど

勝負に夢中になってばかりはいられないのが法務教官だ。

先頭を走ったら,視界から生徒の姿が消える。
そのすきに別の方向に走り出して逃げるかもしれない。

だから

背中を見せて走ることが許されるのは,他の職員が全体を見てくれているときだけだ。

少年院では,授業中に生徒がトイレに行くときですら,他の職員の手を借りなければならない。「サクっと行って帰ってこいよ!」というわけにはいかないのだ。

無線や電話で職員を呼び,一人の生徒の用便のために,わざわざ職員がついていき,きちんと監視しつづけなければならない。

だから

一人で複数の生徒を相手に指導しているときには,それが仮に自分の得意分野だとしても,一緒になって本気で汗をかくわけにはいかないのだ。率先して範を示したい場面でそれができないなんてことは,僕らにとっては日常茶飯事なんだ。

長距離走大会に生徒に混じって参加するときだって,完走した直後に制圧や連行を行うこともある。

プールで平泳ぎのお手本を見せている間に,プールサイドから逃げていく生徒がいるかもしれない。

じゃがいもの切り方を教えている間に,後ろで別の生徒が刃物を隠し持つかもしれない。

だから僕たちは,可能な限り複数の職員で指導を行うし,誰かが範を示すとき,それ以外の職員は黙って全体を見ていなければならない。

教育を行う者と保安に徹する者…

その連携が僕らの仕事の土台を支えている。状況に応じてどちらの役割もきっちこなせなきゃ,現場で戦力にはなれない。ただ穏やかに寄り添って支援…というわけにはいかないのだ。

時に率先垂範を諦め,今この場で指導すべきだと思う大事な瞬間を,じっとこらえて保安に徹しなければならないときもある。

一人の生徒の話をじっくり聞きたいときに,それが叶わぬときもある。

今声をかければ,これまで黙っていた不遇な生い立ちをようやく口にするかもしれない…なんて瞬間を,保安のために後に譲らなければならないこともある。

暴れている生徒に対しては警察官のような顔で制圧し,その生徒が落ち着いたら今度はカウンセラーのような顔で心情を聞き,最後に先生の顔で教育的な働きかけを行う。

単純な教育技術ではなく,教育と保安という二律背反を,個人で,そしてチームでいかに両立させるか…そこに我々法務教官の専門性があるように僕は思う。

難しい。

ここがおもしろい部分でもある。
法務教官は,むずかしくておもしろい。

放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。