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僕らは消費を煽られている

本記事の主旨=脱消費を考える。

資本主義はある意味消費主義とも言い換えられる。大量に生産し、大量に消費し、それを繰り返して経済は回っている。

つまり供給側(多くは企業)は、どんどん消費してもらうためにどんどん生産しなければならない。また同じものだと飽きられてしまうし、買い替え動機がなくなるから、新しいものもどんどん作り出していかなければならない。

そして作ったものは売らなければならないから、売れるように宣伝しなければならない。「これを使うと便利ですよ」「これを持っているとおしゃれですよ」とアップデートを促す。あるいは損を嫌う人間の性質を利用して、「そんなのを持っていたら損ですよ」「そんなものを使っていたらダサいですよ」などと相対的劣等感を刺激する。
これを煽りと称したら間違っているだろうか?

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もちろん売る側に煽っているという悪意(自覚)はないかもしれない。より良いものを使ってもらいたいという善意からなのかもしれない。
しかしそもそも、その「より良いもの」の「良し悪し」の基準はどこにあるのだろう。どこからその基準はやってきたのだろう。
それはおそらく「資本主義」からやってきたのではないだろうか。

「より良いもの」を手にし、他者より相対的に優位に立ちたいという欲求が資本主義を稼働させている。あるいは相対的に優位に立ちたいという欲求は、生存繁殖上優位に立つために生物には必須のエンジンだから、その欲求を資本主義が加速させているとも言える。

つまり僕らの物欲も、そしてそのモノの良し悪しや欲しい欲しくないの判断基準ですら、資本主義——時代や環境によるものでしかない(可能性がある)わけだ。

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つまり僕らはもしかしたら何一つ自分で欲しいものを決めていないのかもしれない。
ただ「今良いとされているもの」を欲しがっているだけなのかもしれない。
もし自分の欲望がそうした環境に作られたものだとしたら、興醒めしやしないだろうか。

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しかしながら、現に現代日本は資本主義なのだから、その価値観をことさらに否定しても損で、QOLを損なってしまう。たとえば極論だが、せっかく便利な洗濯機があるのに、洗濯板で手洗いしていたら疲れるだけだ。
ただ上記のような理由で環境的に(根本的に)消費を煽られていることを自覚していれば、無駄遣いを減らせて、煽られている可能性を考慮した上でも欲しいものに資金を投入することができる。

煽られていることに自覚的であれば、お金の使い道で後悔することは少なくなるように思える。

✅参考書籍

✅関連書籍


その分活字を取り込んで吐き出します。