小宇宙逍遥

最近は近所の古本屋で新書を漁ることが楽しい。汗牛充棟な本の山から、105×175のあの平べったい造形を探り当てる。そうして巡り合った1冊が『シュルレアリスム 終わりなき革命』(酒井健著、中央公論社、2011年)だった。
近頃は西洋美術史、なかんずく19世紀末から20世紀における美術史への関心が昂じており、関連書籍に挑戦しています。そういうわけで、もれなくこちらの図書も私の大切なブックシェルフへと収納されることになりました。

思えば、奇しくも今年はシュルレアリスム生誕100周年。板橋区美術館で開催されたシュルレアリスム展が話題になっていました。
また、ただいま東京都美術館ではデ・キリコ展が開催中ですね。
20世紀イタリアを代表する芸術家、ジョルジュ・デ・キリコ(1888-1978)。若年時代をギリシアで過ごした彼は、古典古代を彷彿とさせる、あるいはその生活の中に見出した日常的なモチーフを非合理的なコンテキストの中にあえて置くことで、絵画表現において不可解な独自の世界観を繰り広げました。
やがて、彼が追求したこの形而上絵画が、のちにシュルレアリスムへ影響を及ぼすこととなります。

一見現実的に見える事物も現実の論理に支配されることなく、不思議な心理的衝撃に満ちた神秘の世界に属するものとなるのである。この手法は、のちにシュルレアリスムの画家たちによって、明確な方法論として確立されるが、キリコの場合は、意識的なものというより、ほとんど詩的直感によって見事な成果を収めている

高階秀爾著『近代絵画史(下) ゴヤからモンドリアンまで』中央公論社、pp.139-140。


私も先日、こちらの展示に足を運びました。作品を見ても、解読困難な描写の連続、頭の中が疑問符で埋め尽くされていく。ただ、その中にも、暖色が喚起するノスタルジックな雰囲気("Stimmung")や、キリコの内面心理に影響をおよぼしたニーチェの思想(生の無意味)と、それによる寂寥、そうしたものはなんとなく感じ取ることができました。
「謎以外の何を愛せようか」、キリコが遺した言葉だそうです。仰る通り、彼の謎への愛に共振するように、好奇心をかきたてられる空間でした。
本展示8/29までの開期となります。残すところわずかですが、みなさまもぜひご覧くださいませ。

話を図書『シュルレアリスム 終わりなき革命』に戻します。
そもそも「シュルレアリスム」とは何でしょうか。本体カバーそでの説明を次のように引用します。

シュルレアリスム(超現実主義)は、第一次世界大戦後のパリで生まれ、世界に広まった文化運動である。若い詩人、文筆家、画家が導いた。戦争、共産主義、ファシズム、無意識、エロス、死、狂気などアクチュアルなテーマに取り組んで、近代文明の刷新をもくろむ

前掲書、カバーそでより引用

この文化運動の本格的な嚆矢となるのが1924年にアンドレ・ブルトンにより起草された『シュルレアリスム宣言』。また、この著作とともに『溶ける魚』という小作品集が刊行されています。
こちらの『溶ける魚』、少し前に図書館で触れることができました。他の資料にかかりきりで数頁のみ目を走らせるにとどまりましたが、100年の歴史が思ったよりも身近にあることを感じられました。読書の醍醐味(!)。

なお、ここまで綴ったところで本音を吐露すると、本書については内容が難解なあまりさっぱり読解できませんでした。
それでも、なんとか最終ページまで捲り終えました。読了にあらず?とはいえ、非常に満足しています。当時理解が及ばなくても、集積したおぼろげな知識の粒子が、ある時ふと結びついて腑に落ちる瞬間を迎えたりする、それもまた読書の醍醐味(!)。

さて、本書において、印象に残った事柄を以下の通り簡潔に羅列します。

・「優雅な死体(le cadavre exquis)」
シュルレアリスムの芸術家が嗜んだ遊びだそうです。絵画や詩歌において、各参加者にパートを割り振り、最終的にそれらを付き合わせて作品を完成させます。そうして発生する偶然性を興じるもので、気軽にシュルレアリスムの世界に触れることができそう。今度人と一緒に挑戦してみたいです。

・従軍兵の戦時体験
現代においては、生者は生きている者、死者は死んでいる者、人間は人間、動物は動物という単純明快な一義的アイデンティティが重視されています。その潮流とは対照的に、臨戦中の従軍兵は「あいだ」の超現実を目の当たりにしたそうです。すなわち、生きた姿のまま息絶える兵士や、銃撃にあい人魂かと見間違えるような輝きを放つ照明弾といった、一義的アイデンティティに囚われない事象を。

・シュルレアリスム運動の展開を促した怒りの感情
「大戦争」と称される凄惨な第一次世界大戦から生還した「復員兵の世代」の間で渦巻いた、西欧近代文明のあり方、とりわけ合理主義的な文明に対する激しい怒りの感情。それらの情動が、ダダイズムを超え、シュルレアリスムとして展開していきます。

・「自動記述(Écriture automatique)」
シュルレアリスムにおける創作行為、理性・美学上ないし道徳上における統制や規範から解放された思考の書き取りを指しています。つまり、潜在意識の領域にある思考、無意識層において身体エネルギーと一体となる肉体的な言語を表出させようとする試みです。

とりわけ最後の自動記述は、人の無意識の世界に干渉する行為でした。ここには、当時を席巻したフロイトの精神分析が非常に大きく関与しています。当書においても大部分において取り沙汰されていました。
なお、実際の催眠実験の会では、人間の潜在的な本能にアプローチする性質上、半睡状態のまま集団自殺を図る者や極端に攻撃的になる者が現れ、じきに撤退していったそうです。

ところで、いつか人間は無意識下で繋がってるという言説を耳にしたことがあります。その抽象度の高さから、にわかには想像し難いですが。
もし、その仮説が事実だとするならば、その無意識の世界はどれほど広大なのでしょう。そこには際限など存在しないのでしょうか。
また、無限に広がる宇宙と比較した時、どちらがより果てしないのでしょう。

思えば、人間の潜在意識も宇宙の広がりも、似通っているように感じられます。
この世の中にあまた存在する人の心に、宙に散らばる無数の星々を重ねることができる。そうは思えませんか。
核融合反応による燃焼から絶えずエネルギーを放出する天体のように、人の心も恒常的に知的活動にはげみ、想像力を躍動させています。
この営みを宇宙に喩えるのであれば、人類は社会という機能のもとで繋がり、そこで銀河群を形成している、そんなところでしょうか。

ただし、宇宙の星々と人の心、明らかに異なる点がひとつあります。
空を見上げた先に、水面の反射の中に、四方八方に星の瞬きを発見できる様と違い、人の心は頭上にも足元にもない。真正面にある。
見上げるものでも見下げるものでもなく、ただ真っ直ぐに向き合うもの。
そうして通じ合った他人の心の星が、自分自身の方位や座標を照らし示してくれる。

しかしながら、以上の比喩を踏まえると、人は外界からの光を受けて輝く月としても、自ら煌々と発光する太陽としても捉えることができますね。
要するに、私たちは考え方次第で何にでもなれるということなのかもしれません。現実味を欠いた、超現実的な絵空事に過ぎませんが、それでも、悪い思いつきではないように思います。


補足
新書漁り趣味と該当図書の購入がおおよそ半年ほど前のことで、本文の草案もその頃に書き起こしました。それから数ヶ月を経てようやく文章化した内容が本記事となります。そのため、「”最近は”近所の本屋で〜」という記述は正確には誤りです。
無意識下や天体云々の推察も2、3月あたりに考えていたもので、公開とはややタイムラグがあります。(光陰矢の如し!)
これだけの時間が過ぎると案の定自身の考え方や知識も変化するので、文章にいささか違和感を抱きますが、根底の価値判断基準には相変わらずの私らしさを見出すことができ、安心しました。えへ。
本記事で取り上げた図書の方もいずれ改めて再読したいと思います。

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