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『私の20世紀』【映画鑑賞記録#5】

1989年公開、ハンガリー出身インディゴー・エニェディ監督作品、『私の20世紀』の鑑賞記録です。
原題は『Az én XX. századom』。ローマ数字表記が格好いい。
まだまだ上半期も終えていないのに2024年でみた中で一番好みな、それどころか自分のお気に入りの5本指に入りそうな作品と出会えました。嬉しい。本文の方もなにやら長くなってしまいそうな。

世界観は幻想的、SFっぽい。寓話と科学が調和している。退廃的かつ官能的。作品の舞台はベル・エポック(「良き時代」)。19世紀末から第一次世界大戦まで、ヨーロッパが束の間の享楽に陶酔し、政治的にもかりそめの安泰が保たれていた時代です。

宇宙から語りかける何者かの存在があります。その声が視聴者を物語の一段階上の次元、俯瞰的な視点へと誘導してくれる。
少しだけ『素晴らしき哉、人生!』(1946年)のイントロを彷彿とさせる。あの映画も大好き。

公開は1990年ですが、全編モノクロです。最近の映画では『ベルファスト』、『哀れなるものたち』に同様の演出がありました。
白の無垢な神々しさ、黒の神秘的な内密性、色が不在の世界においてそれぞれが互いの美しさを強調しあっている。
カラーフィルムの誕生が表現としてのモノクロの可能性を押し広げました。
かつての映像の世界。色彩が開放されておらず、表現が明度にのみ依存していた時代の人々は、映像技術の限界になにを思ったのでしょう。
失われていく夥しい数の色彩に思いを馳せたりしたのでしょうか。
今では色が横溢しているほどなのに。様変わりしました。

のっけから長くなりました。
あらすじが続きます。

あらすじ

1880年、エジソンの白熱電球の発明とそれに続く光のショーで物語の幕は上がります。世紀末のクリスマス。ブダペストで産み落とされた双子の孤児、リリとドーラはまもなく別々の老紳士にもらわれていきました。
それから20年の時を経て、世界は新しい世紀を迎えます。
ドーラは上流の男性を標的にする美麗な詐欺師に、他方リリはアナーキズム(?)に傾倒する小心な革命家に成長しました。
相反する変貌を遂げた二人は、各自異なる状況下でZという正体不明の紳士と遭遇します。
図書館で見かけたリリに好意を抱いたZは、彼女に接近を図ります。
また、後日乗り込んだ客船で、Zはドーラと出逢います。
見知った相貌のドーラをリリと勘違いしたZは、まるで別人のような大胆さで振る舞う彼女に戸惑いながらも、ドーラと関係を持ちました。
複雑に絡み合う関係性を宿したこの三者は、得体の知れない強制力に導かれ、鏡の空間に集います。
ここでZは、リリかドーラ、どちらの女性を選ぶか選択を迫られます。


掴みどころのない展開で、うまくまとめることができませんでした。特に後半。
ポリフォニー形式というか。オムニバス形式というか。並行して繰り広げられる個別の物語が、最終的にひとつの着地点に結び付けられます。

内密さ、ときめき、色気を宿した作品。
BGMや構成、視覚に依らない美術の妙。なによりも、主演女優の魅力が堰を切ったように溢れ出している。
演出は幻想的でリリカル、されど背景には科学という客観的かつ論理的な基軸がある。哲学的示唆も込められていて摩訶不思議。
科学の他に挙げられる主要テーマ、むしろ一番ハイライトされているのは”女性”という概念です。
形而上における女性、現実社会における女性、どちらも扱います。

女性観

作中の男性優位主義者は女性解放を題材とする学術的講演のなかで、女性を”非存在”として定義します。
知的良心を持たず、性衝動の虜。平気で嘘をつき、自我を持たない女性はそもそも議論にあがりようがないと。
感情的に飛躍した理論を振りかざすこの学者、なにやら女性に対する劣等感がありそうです。
講堂を埋め尽くす女性たちは、エスカレートする暴論にやじを飛ばします。まるで政治集会。
女性にとって”女性解放”の問題は自分ごと。研究対象以前に実生活におけるイシューなのだから、それもそのはず。

とはいえ、教授がはじめに指摘していた持論。女性は、母親と娼婦のふたつに分類することができる。
この説はわかる気がする。まさに本作の核心に迫る発想に思います。

ふたつの極

作品における1番の魅力は、なんと言っても主演女優の挙動、容姿、演技にあります。まさにファムファタル。大胆なシーンも散見されますが、いやらしさが皆無。洗練された官能。
彼女がリリとドーラを一人二役で演じています。ドロタ・セグダという役者です。
所作だけでなく、声質も最高。二役を演じる中で声が使い分けられています。リリの声はたおやかで凛としている。ドーラの声は甘ったるくて天真爛漫。
というかこの映画全体、登場人物の声が澄んでいて耳心地がいい。

このリリとドーラ、それぞれが象徴しているのが、娼婦としての女性、母親としての女性。
モノクロしかり、光と闇然り、リリとドーラしかり。事物はその対極の存在により、より存在感を発揮します。相克こそ、そのものがそのものであるとの証明になる。
悪徳に満ちたドーラの行いは社会的に糾弾されて当然。また、そのような世相の是正は、同じ女性性を持つ者によってもたらされる。
最古の職業は娼婦なんて一説もありますが、最終的に社会は母親としての女性を選ぶのだと言えるでしょう。女性に学習機会を与え、社会参加を受け入れた。
娼婦が淘汰されるのは、進化の過程においてなんら不自然なことではない。淘汰というよりも、片側の女性性に吸収されていくと言う方がふさわしいかもしれません。

ドーラの美

それでもやはり、目を引くのはドーラの華麗豊饒な美しさ。
彼女は天真爛漫に男をたぶらかし、快楽に耽り、生を謳歌する才能に満ちている。コケティッシュな所作と容貌で異性を翻弄するが、決して彼らに迎合はしない。
彼女が抱くもの、女性性をありのままに受け入れる心と、自由への憧れ。また、それに依拠する自分本位の強さ。
この逞しさは本物、非難しようがないように思います。

リリが放つ温和な光とは対照的な、刹那的に瞬く閃光のような光線。
この世紀末の時代、あらゆる芸術家が追求した主題に、”夢の女”が挙げられるそうです。

この時代は本質的に女性的な時代でありーーー病的なまでに鋭い官能性と、天使のような清らかさの不思議な混淆を示す「奇しくも懐かしい」女性像が支配的であった時代なのである。

高階秀爾『世紀末芸術』、筑摩書房、2008年、pp.164-165。

サロメに代表されるこうした女性に、ドーラも含まれるのでしょう。

好奇心と進歩

世紀末を象徴するは、産業革命の発展と、目覚ましい科学技術の進歩にともなう物質文明の興隆。
その推進力となったのは、人間が内包する「好奇心」でしょう。本作におけるもうひとつの主要テーマ。

通信技術や交通手段の発展により伸長したグローバリゼーション。リリとドーラが幼少ぶりにはじめて顔を合わせたのは、大陸をひとつに結びつけるオリエント急行のもとででした。

動物に示唆されるもの

また、作中に登場するのは個性的で愛くるしい動物。
実験装置を頭に取り付けられた被験体としての犬が、はじめて目にする世界を駆け回る様子や、動物園の檻の中から身の上話をするチンパンジーが描かれています。感受性豊かな生き物たち。
ただ、グロテスクな描写ではあります。こうした状況から伺えるのは人間の傲慢。
チンパンジーは、鉄格子の向こうから、「好奇心はほどほどに」と諭します。

革命家となったリリは、生存競争が進化を促すとしたダーウィニズムに反論する内容の『相互扶助論』という書物を持ち歩いていました。
著者は同書において、生物の相互扶助(助け合い)が生存と繁栄に重要だと説いているそうです。
露骨な生存競争への肯定に反抗する理想論。ただ、優しく温かい理論にも聞こえる。母性を感じます。
なお、心優しきリリも暴力による解決を図ります。テロは未遂に終わりますが。

音楽の多様性

それと、挿入歌の多様性やコントラストも、本作の独創性を助長させる一因となっています。
モダンなシンセサイザー?と、ベッリーニのオペラ「ノルマ」から引用された劇的なクラシックが一作品の中に同居している。
古典音楽を現代の作品の中で用いると、楽曲のアナクロさによってかえって作品の異質性が際立ちますね。現代的な音楽も起用されているからなおのこと対称性が顕著。
そのようにして誘起されるいい意味での違和感が、この映画の幻想性やSFらしさを構成する要素のひとつになっているのでしょう。

なるほど。作品のうち、脚本、構成などの表面的な成分を夫とするのであれば、それに寄り添う表現力、芸術などの成分は妻に例えられる。
両者一丸となって、一本の作品という家庭を築き上げているのね。
挿入歌であるコンテンポラリー音楽は作曲家László Vidovszkyの作品だそうです。あやしくも軽快で可愛らしい。

"私"の20世紀

"私"にとっての女性

本作、全体的に「フェミニズム」という概念を連想させます。
そうは言いつつも、「フェミニズム」という語をうまく扱う自信が私にはない。
「フェミニズム」に関連する、女性を主題とした映画、と言い表すが適切かもしれません。
しかしながら、なんらかの自説を主張をしているわけではなさそう。警告でもない。
ただ世間の潮流をありのまま描いているだけ、そんな印象を受けます。
扱うテーマはセンセーショナル、それでいて説教臭さが一切ない。包容力のある映画。

女性が社会を期待し、闘争し、請願した20世紀。”私”の目から見たその世紀の再現。
最大の焦点は社会的、政治的ななにがしというよりも、いずれの女性にも宿された美しさ、崇高さにあるような気がする。
動物園でのチンパンジーの戒め、Zに向けられた言葉とも読めます。女性の深みにはまって抜け出せなくなることがないよう。女性を捕らえることなんてできない、と。

私は以下のように思います。
女性が本当の意味で男性と同等の立場、もとい敬意を獲得する手段があるのだとすれば、男性に対する反発や張り合い、敵対の中にあるのではない。
その萌芽は女性自身の自我や自意識にあり、独立したひとつの総体としての女性たちが、(集団として)個人的に生み出していくものなのかと思います。
それこそ、人類における相互扶助が生きるのかな。
勿論どうしようもない外的要因が存在することは理解していますし、何も知らない自分は当たり障りのない空論しか語ることができません。情けない。

さて、"私"の20世紀。それはどのような様相を呈していたのでしょうか。
その正解は、われわれが生きる21世紀現代の中にあるのでしょう。

結び

またひとついい映画知れたなの気持ち。幸せ。
『私の20世紀』からほのかに漂うノスタルジアの芳香は、本作の舞台となる19世紀末から20世紀が、女性の、科学の、社会の過渡期であるがゆえのものなのでしょう。
そういう世界観、本当に本当に大好き。変遷期を背景にした作品は哀愁に満ちていてたまりません。

暗喩もまだまだありそう。深掘りすればもっとたくさんの見方を楽しめるはずなのに、作品の面白さを引き出せない自分の浅さ、視野の狭さが悔しくてたまらない。泣
知的好奇心の動力、私の場合は映画や本などの創作を楽しみたいという想いが一端になっています。
でもそれ、まさしく底なし沼です。もう抜け出せない。
これから先もずっと映画に、本に、世界の未知に、とらわれ続けていくのかな。
チンパンジーの教え、私も痛感しました。「好奇心はほどほどに」。


鑑賞:2024/1/30

左がドーラ、右がリリ。両者ドロタ・セグダ。

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