神がいなければ、僕が神だ―キリーロフの人神思想

「人間は、自殺しないですむために神を考え出すことにばかり熱中してきた。これが、今日に至るまでの世界史の要約だね」

キリーロフは、ドストエフスキーの小説『悪霊』に登場する人物だ。彼の目的はただ一つ、自らが神になること、そのために自殺を遂げること。この観念こそ彼の全てであり、また彼に託したのものこそ、作者ドストエフスキー自身が抱える問題意識の根幹を成すものだと言える。

ドストエフスキーは「神は存在するのか」という命題を問い続けてきた作家だ。この問いは、だがしかし、額面通りに受け取ってはならない。単なる宗教議論では、断じてない。彼が神の存在を問うたのは、「生きることは可能であるか」という、人間の実存が発する不可避の叫び、存在意義への絶望的な懐疑からである。だから、疑義は素朴な実在論としてではなく、自らを見放したかに見える神に対する激烈な弾劾、愛憎の裁判としてある。

ドストエフスキーの小説では、人生の意義如何という問いは、極限的な解答、―人間の生存は虚妄であるか、然らずんば永遠であるか、そのどちらかだという極限的な解答しかあり得ぬほど激烈な調子で提起される。(カミュ 不条理な創造)

ドストエフスキーにとって、生きることは肯定か否定か─つまり神は存在し、人間の生は永遠であるのか。あるいは神は存在せず、生は虚構であるのか。そのどちらかしかあり得ない。中間項は存在しない。やがて死する運命であることを受入れながら生きることは、彼にとっては不可能であり、不条理である。

ここに、現代の一般的な大衆との乖離があるように思う。ぼくたちは、当然のように死ぬことを受入れてしまっているか、あるいは死を忘却して生きている。だから、「永遠の生」なるものを必要とはしないし、神が存在しなくとも生きていける。

しかしながらドストエフスキーの生きた時代においては、神はその権力を失墜しかけている最中だった。同時代に、カミュ曰く「あの最も有名な神の殺戮者」であるニーチェがいることからもわかるように、「神の否定」という試みそのものが未だ壮絶であり得た時代なのだ。その点において、ぼくたちと彼ら実存主義者との乖離は埋めがたいものがある。

一方で、ぼくのようなメンヘラカルチャー好きには、ドストエフスキーの問いが骨身に染みて理解できる。生は、苦しく、重たく、面倒だ。それでいて、いずれ消え去らなければならないとはいったいどういうことだろう。「生は無意味である」、この命題を受入れながら生きることは、到底不条理なことのように思える。論理ではなく、実感として。「巨大な石を二本の腕で運び、山頂に到達したかと思うと石は勝手に転がり落ちる、そしてまた石を運ばねばならない、永遠に」という、シーシュポスに与えられた神からの罰は、「無意味」という感覚の解像度を上げてくれるだろう。生存とはこのような不条理性を持っている。

このような不条理な生を肯定するために持ち出されるのが、神というわけだ。神は超越的な場所から、人間の生を「価値づけてくれる」存在である。人間の生存の根拠を成し、真理をもたらす存在である。

唯一の真の突破口は、まさしく、人間の判断する限り突破口など存在しない所にある。そうでなければ、どうして我々は神を必要としよう。人が神へと向かうのは、ただ、不可能ごとを獲得したいために他ならない。可能ごとについてなら、人間で事足りる

シェストフのこの言葉を読むとき、ドストエフスキーがなぜ神を求めたのか理解を深めることができる。またここにおいて、ぼくたちがドストエフスキーを、そしてこれから紹介するキリーロフを理解するうえで共有すべき前提が見出せる。それは以下の二つである。

①生きることは、そもそも不可能ごとである。

②その不可能ごとを可能にするためには、神が必要である。

以上の前提の下で、キリーロフの人神思想、―「もし神がないとしたら、ぼくが神だ」―について考えていきたい。

死ぬ時、私たちは世界の王者になる

19世紀ロシアでは、無神論がその萌芽を遂げていたようだ。ドストエフスキーは「革命か、信仰か」の問いをテロリズムとの関係において描いた作家であり、神なしに生きる人間の破滅、魂の矛盾を峻烈な筆致に託していた。人は神を乗り越えるのか、それとも神と共にあるべきなのか?その問いの深刻さは、上記で見たとおりである。

キリーロフは、死にかけの神にとどめをさすべく行動する人物だ。彼は革命の弾丸を自らに打ち込むべく行動する。彼もまた、無神論に取りつかれている人間の一人である。しかしながら彼は奥底において痛切に神を求めていて、その希求の絶望的な到達点として自らが神にならざるを得なかった男である。

キリーロフにとっても、生きることは不可能ごとであり、根本的に矛盾をはらんだ行為である。

「生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです。いまは苦痛と恐怖ばかりですよ。今人間が生を愛するのは、苦痛と恐怖を愛するからなんです。そういう風に作られてもいる。いまは生が、苦痛や恐怖を代償に与えられている、ここに一切の欺瞞の元があるわけです。」

「そういう風に作られている」という点に着目したい。ここには暗に神の存在が前提されているのが分かるだろう。キリーロフは、無神論を心棒し、自らが神になろうとしていながら、無邪気にも神を所与のものとみなしている。そこには矛盾があるように見える。

ようはこういうことだ。リンゴという存在を否定するためには、まずリンゴは存在していなければならない。ないものを否定することはできない。リンゴを徹底的に侮辱し、憎悪するためには、リンゴという存在を理解し、思い描かなくてはならない。熱烈な否定は、「存在していること」を自体的に肯定している。

だから、無神論者キリーロフも、神の存在を前提としながら、神を否定していく。その彼の矛盾は、以下の言葉に要約される。

「神は必要だから、存在するはずだ」                 「ところがぼくは、神は存在しないし、存在しえないことを知っている」「きみにはわからないのかな、人間はそんな二種類の思想をもちながら生きてはいけないことが?」

神は生を可能にするために、なんとしてでも存在しなくてはならない。しかしながら「あの神」、すなわちキリスト教的な超越者としての神は、もはやその権威を失い、墓穴に入りかけている。これまで生を可能にしてきたかに見えた「あの神」は、偽りの神だったのだ。無神論の横行がその証である。だから、「新しい神」がその姿を現さなくてはならない。不可能な生を可能にするために。そのために、彼は墓から神を呼出し、痛烈な否を突きつけるのである。

当時のロシアにおいて、有神論と無神論は同時に存在し、人々は神に対して曖昧な態度をとっていた。神は幽霊のように存在していたのである。そのどっちつかずをキリーロフは唾棄した。肯定か否定そのどちらかしかありえぬその極端さこそ、キリーロフがキリーロフたる所以だ。彼はこれまでの神を徹底的にこの地上から排したかったのだ(その行為の裏には、自らを裏切った神への慟哭があるかもしれない)。そうしてこれまでの神がその姿を消した野ざらしの地にこそ、新しい神が出現するのにふさわしい。そのための方法として、自殺がある。

神がいないと、人は生きてはいけないという前提は以前確認した。キリーロフはこの定理から、逆説的に「自殺することによって神の不在を証明する」のである。

この方法論は、「あの神」が生きることを命令してきたことからも理に適う。神は生を強制し、またその命令を履行させるために死への恐怖を人間に与えた。その死の恐怖の乗り越えこそ、旧態の神を打ち倒す行為に他ならない。超越的な神に「与えられた」もの、「強いられた」ものとしての生を、徹底的に否定することによって、神の不在は証明される。(ここにも、神の不在を証明するために逆説的に神の論理を持ち出してしまう、彼の矛盾が顕になっている)

ここに、キリーロフの神の特性、すなわち「我意の証明」があらわになる。

「もし神があるとすれば、すべての意志は神のもので、ぼくはその意志から抜け出せない。もしないとすれば、全ての意志はぼくのもので、ぼくは我意を主張する義務がある」
「恐怖を殺すためだけに自殺するものが、たちまち神になるのです」
「生きていても、生きていなくても、どうでもいい人間、それが新しい人間なんです。苦痛と恐怖に打ち勝つものが、自ら神になる。そして、あの神はいなくなる」

「死への恐怖」こそ、キリーロフは乗り越えなくてはならないと考えた。キリーロフにとっての解脱、思想の臨界点こそ、「生きていても生きていなくてもいい状態」である。その地点において、生と死は等価となり、死への恐怖はなくなる。恐怖こそ、神による束縛であり、死を忌避する限り人間は神の奴隷である。よって自殺こそ─「僕は死を恐れないぞ」という宣言こそ─が、最高の自由の証左となる。死による我意の証明によって、これまでの神は殺される。

ここで疑問がある。自殺者はこの時代においても数多存在したはずであり、ならばその時点で神は死んでいるはずだ、キリーロフが我意を証明せずとも、既にして人間は解き放たれているのではないか?解答は、キリーロフ自身によってもたらされる。

「自殺者は何百人といましたよ」                   「ところが、いつもそのためではない。いつだって恐怖を感じながらで、その目的のためではなかった。恐怖を殺すためではなかった。恐怖を殺すためだけに自殺するものが、たちまち神になるのです」
「我意?でも、どうして義務なんです?」              「なぜなら、全ての意志がぼくの意志になったから。この地上に、神を滅ぼして我意を信じ、最も完全なる点まで我意を主張する人間は一人もいないではないか。……ぼくは我意を主張したい。たとえ一人きりだろうと、やって見せる」

キリーロフは恐怖を殺すためだけに自分を殺すことで、この地上の人間すべてが「我意」という神性をもっていることを告げようとしているのである。彼は、神を失いつつあるこの世界にもう一度神の到来を知らせる。その動機はまさしく人類愛に基づく義務感にほかならない。彼が響かせる銃声は、祝砲なのだ。ゆえに、

「この証明のために、初めの一人は死ななくてはならない」
「ぼくはおそろしく不幸だよ、なぜなら、おそろしく恐れているから。恐怖は人間の呪いなんだ…しかし、ぼくは我意を宣言するぞ、ぼくには、自分が信仰を持っていないことを信ずる義務があるのだ」

その犠牲の精神は、あるいはあのイエス・キリストを彷彿とさせるものがある。キリーロフは、自らを十字架にかけることによって、既に人類が解放されていること、あの神は死んだこと、そして全ての人間が神であることを知らせるのだ。

究極的な我意の証明、そのための自死。それが叶えられると同時に、新しい神が出現するのである。なぜなら神の隷属から解放され、全ての欲望が、倫理が、自由が、一人の人間の裁量に従属するからだ。いかなる行為の一切も許されている。人間のあらゆる行為が、人間の名の下で肯定される。キリーロフは言う。

「全てです。人間が不幸なのは、自分が不幸であることを知らないから、それだけです。これがいっさい、いっさいなんです!知るものはただちに幸福になる。その瞬間に。」
「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩き潰す者がいても、やっぱりすばらしい。叩き潰さない者も、やっぱりすばらしい。すべてがすばらしい、すべてがです。すべてがすばらしいことを知るものには、すばらしい。」

このキリーロフの態度は、ニーチェ的な運命愛と同値だ。人生の上に起こるあらゆることが、すべて肯定される。しかも、人間自身の手によって。そのような人間自身による人間の生の高らかな肯定こそ、神の消えた世界の中で、ニーチェやキリーロフが求めていたことだった。

「神を作り出した人間が、その神に見捨てられるという凄絶なパラドックスの中に、彼は人間存在の尊さを見出したのです。」─かえるくん

さて、これまでの文章を要約すると以下のようになる。
①神は生きるために必要だ。
②しかしながら神はいない。(あるいは死にかけている)
③ゆえに人は自殺しなくてはならない。
④自殺によって究極の我意が証明され、これまでの神が死ぬ。
⑤人が神になる。
⑥全ては素晴らしい。

あえてここでは指摘しないものの、キリーロフの思想は、論理的な瑕疵も倫理的な問題も多分に含んでいる、欠陥思想ではあるだろう。ドストエフスキー自身、キリーロフのような無神論思想に傾きつつも、その乗り越えの方法を生涯探し求めていた。キリーロフは人間の真理足り得なかったのだ。しかしながら、ドストエフスキーがキリーロフを通して描き出したもの、村上春樹が『かえるくん東京を救う』において指摘した「凄絶なパラドックス」を、ぼくは愛さずにはいられない。キリーロフの凄惨とも言うべき魂には、人間存在の悲劇性─あるいは喜劇性を、無限に見出すことができるだろう。

「もしきみが神を信じていることを知ったら、君は信仰を持つようになる。ところがきみはまだ自分が神を信じていることを知らないから、それで信仰も持てないのですよ」ニコライはにやりとした。

カミュ曰く、キリーロフは不条理な人物だ。彼は涜神的でありながら、どうしようもなく神を求めているようにも見える。地上を愛しているようで、全然愛していないようでもある。この人物造形の巧みさ、矛盾と謎が奏でる人間精神の至高の交響楽こそ、ドストエフスキーの魅力である。

キリーロフの辿った運命の結末、そしてドストエフスキーの内奥に含まれた精神の相克を、是非その目で味わってほしい。
『悪霊』を読もう。ドストエフスキーを読もう。ちなみにぼくの激推しはニコライ・スタヴローギンです。未来最高。

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