斜めの光線

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P・オースター『ガラスの街』再読

物語は探偵小説を装ったメタ物語小説であるといえる。何重もの分身関係と入れ子構造、そして幻のように消え去るストーリーラインによって、作者は小説というフィクションそれ自体の本質的な空洞性を暴き出す。 「作者と探偵は入れ替え可能である」。探偵は偶然の出来事の羅列から、ある必然性=ストーリーを抽出する。しかしその整合性はあくまでも、作者によって予定されているものである。探偵は言うなれば作者と読者の仲介者だ。その使命は作者と同じく、ある物語を読者に届けることである。 小説はその表面

    • 完璧な機械仕掛け─反出生主義的考察

      全ての出生は呪われている。故に全ての人間は呪われている。全ての親はグノーシスの神であり、出生とは幽閉だ。ある人々はその事態を祝福し、あるいは感謝しさえする。「生まれてきてくれてありがとう」、と。しかしここには見逃すことのできない詐術がある。彼が生まれてきたのではない。我々が彼を生み出したのだ。 人間はひとつの密約のもとに社会を形成している。これだけ「自由な意思決定能力を有した人格的行為者」であることが尊重され、守られ、また強いられさえする時代に生きながら、誰もが原初の

      • 「償われぬ涙」の上に建つ─反出生主義的考察

        全ての出生に絶対的な不均衡が存在している以上、出生は正義ではあり得ない。ではその不均衡を少しでも是正するような妥協策、理想と解離した現実を少しでも善くする次善策は可能だろうか。 「公正な出生」に関して、ワインバーグは、ロールズの配分的正義の構想を下敷きにしながら考察している。すなわち、「もし私たちが、これから子産みをする大人であるか、それとも生まれてくる子供であるかわからないように無知のヴェールを被せられたとしたら、どのような原理を合理的に採用するのか」を検討してみるという

        • 虚無についての注釈─スタヴローギンについて

          ニコライ・フセーヴォロドヴィッチ・スタヴローギンは、ドストエフスキー文学における「悪の主人公」の系譜の臨界点としてーあるいは臨界点を踏み越えたものとしてー過剰なまでに象徴的な存在である。彼は一切を信じない。彼にはなにもない。その巨大な空洞に、その果てしなさに、人々は憑かれたように魅了される。あるものは崇拝し、あるものは屈服し、あるものは憎悪する。けれど彼はそのすべてを冷ややかに眺めている。月が人を見下ろすかのように。その生涯はなにものも生み出さず、衰弱と消耗をしかその様式とせ

        P・オースター『ガラスの街』再読

          浅倉透とバタイユの『連続性』概念

          前置きジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』に記述される「連続性」の概念を用いて、浅倉透のコミュに統一的な解釈を与えていきつつ、浅倉透の内的世界に迫っていく。これが本稿の目的である。提示される物語が高度な象徴性と抽象性に満ちている以上、浅倉透について理解を深めていくためには、物語の主題性にアプローチしていかざるを得ない。浅倉透がなにを感じ、なにを考え、なにを求めているのか。それは浅倉本人にとってさえ、朧げな輪郭があるばかりだろう。ゆえに、浅倉透を読み解いていくためには、人格的

          浅倉透とバタイユの『連続性』概念

          浅倉透はテロリストにならなかった

          「しかし爆弾があるんだろう?」 「爆弾はある」 「そんなら行くべきだ……爆弾があれば、たいていのことはできる」(サヴィンコフ『テロリスト群像』) 1.浅倉透の桎梏僕達は替えの効く部品ではない。僕達の時間は商品ではない。僕達は「他の誰でもないこの〈私〉」であり、ひとつの「世界」であり、誰もが特別な星の輝きだ。浅倉透は言った、「この場所が─世界が─誰のものでもなければいい」と。その通りだ。僕達は誰のものでもない、親のものでも社会のものでも国のものでもない。けれども僕達を取り囲

          浅倉透はテロリストにならなかった

          観念としての反出生主義─実存主義的現象学の観点から

          1.目的 現在、「反出生主義」として俎上に載せられているのは、デイヴィットベネターによって提出された分析哲学的な議論である。そのメインストリームにつづく形で、シオランやショーパンハウアーなどの実存主義的な反出生主義にスポットが当たっているといえるだろう。反出生主義が現在の地位を獲得しえたのは、ひとえに「個人的な厭世観ではない議論的な枠組み」を反出生主義に与えたベネターの功績によるものである。現在の自分が幸福であるか否かというような、個人的な認識によることなく、「客観的な」強

          観念としての反出生主義─実存主義的現象学の観点から

          神がいなければ、僕が神だ―キリーロフの人神思想

          「人間は、自殺しないですむために神を考え出すことにばかり熱中してきた。これが、今日に至るまでの世界史の要約だね」キリーロフは、ドストエフスキーの小説『悪霊』に登場する人物だ。彼の目的はただ一つ、自らが神になること、そのために自殺を遂げること。この観念こそ彼の全てであり、また彼に託したのものこそ、作者ドストエフスキー自身が抱える問題意識の根幹を成すものだと言える。 ドストエフスキーは「神は存在するのか」という命題を問い続けてきた作家だ。この問いは、だがしかし、額面通りに受け取

          神がいなければ、僕が神だ―キリーロフの人神思想