浅倉透とバタイユの『連続性』概念

前置き

ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』に記述される「連続性」の概念を用いて、浅倉透のコミュに統一的な解釈を与えていきつつ、浅倉透の内的世界に迫っていく。これが本稿の目的である。提示される物語が高度な象徴性と抽象性に満ちている以上、浅倉透について理解を深めていくためには、物語の主題性にアプローチしていかざるを得ない。浅倉透がなにを感じ、なにを考え、なにを求めているのか。それは浅倉本人にとってさえ、朧げな輪郭があるばかりだろう。ゆえに、浅倉透を読み解いていくためには、人格的なアプローチよりも、物語の主題に接近していくことが要求される、と考えられる。その視座においてこそ、浅倉透の人格が立ち上がっていくだろう。けれどもシャニマス世界がいかに「なまもの」としての存在強度をアイドルたちに与えているかを考えれば、このような「物語的」読解や、外付けの文脈付与はむしろ彼女たちの存在を読み逃すことになりうる。あくまでも提示される物語における「主題的な」読解においてのみ、そしてそこにおいて現出する浅倉透の「人格」への微妙な接近においてのみ、本稿は意味を持つ。

なお、バタイユの解説にあたっては本稿の目的に沿う部分のみになるため、厳密さや精緻さに欠ける乱雑な引用になっていることはご了承願いたい(たとえばバタイユの疑似二項対立関係における重要な要素となる「不可能性」についてはまったく取り扱わない)。

1.「連続性」とはなにか

まずはこの「連続性」の概念を説明するところから始めよう。バタイユによれば、僕たちはーあらゆる個体はー不連続な存在であるとされる。わかりやすくいえば、僕たちは根源的な孤独にさらされているということだ。個体の身体が感じるあらゆる感覚、感情、主観的体験の総和は、それそのものを誰とも共有することができないという絶対的な隔たりを抱えている。人間は言葉を用いて自分の経験を伝えることができるけれども、それも経験そのものの影であって、決して経験そのものではない。僕が感じる痛みは僕だけのものだ。それ以外はあり得ない。

各存在の誕生、死、そして生涯におけるさまざまな出来事は、他の存在たちに対し利害を及ぼしうるが、直接的に利害が及ぶのは当の存在だけなのだ。この存在だけが生まれ、この存在だけが死んでゆくのである。一個の存在と他の存在との間には深淵があり、不連続性があるのだ。(バタイユ『エロティシズム』)

その根源的な孤独、不連続性に対して、僕たちは不安を覚える。この孤立に、個体という囲いに、僕たちは耐え続けることができない。だからこそ、僕たちは連続性を求める。連続性とは、不連続な存在の変動であり、個体という囲いの解体であり、自己存在の溶融であり、超越的な体験である。主客の合一、全体性との融合……といえば伝わるだろうか。正確な理解かどうか自信がないけれども、エヴァンゲリオンにおける「人類補完計画」のようなものだと考えていいと思う。他者との絶対的な隔たりにさらされている孤独な個体たちが、他者との不和や衝突を取り払って、人類全体でひとつのものに溶けあう、そのような合一の経験こそ、連続性と呼びうるものだ。

バタイユはその連続性の経験を、恋の情念に例えている。愛する相手のことを思うとき、その統御不可能な情熱に身を焦がしているとき、僕たちは自己が崩壊していく、寄る辺ない不安を感じる。その経験において発生しているものこそ、連続性への憧憬に他ならない。その、恋人への焦がれるような感情において、僕たちは「肉体の結合の可能性に心情の結合の可能性を付け加える、定義しがたい合一」が実現されるかもしれないと感じている。恋の情念には、僕たちを苛む根源的な孤独が解消されるかもしれないという、切実な夢想が含まれている。

連続性の概念において見逃せないのは、それが「死」への魅惑の類似物として説明される点である。不連続な個体が連続性へと移行していくことで、個体を閉じ込めている囲いが消失するとき、そこにおいて存在の死が発生している。個体は不連続性に囲まれているけれども、その囲いこそが当の個体の存在を保証しているのだ。ゆえに連続性へと溶けだしていくとき、僕たちは疑似的に死ななければならない。逆に言えば、死において存在が消失する時、そこには連続性が発生している。死と連続性とは類似している。僕たちは死と連続性とに、同じだけ魅せられている。ここにおいて、一般的に「恋」と「死」とがよく比喩的に結びつけられている理由がわかる。

すなわち男女二人の恋人の結合が情念の結果だとしても、この情念は他方でもう一つの可能性、つまり死を、殺人への、あるいは自殺への欲望を、引き起こすということだ。

さて、バタイユは連続性の経験の例として「詩」について述べているけれども、そこにおいて引用されるランボーの詩は非常に浅倉透と共鳴しうるものであると、僕は考えている。

見つけ出すことができたんだ。/何をだい?/永遠さ。/それは、太陽と/一緒になった海なんだ。

太陽と一緒になった海。その詩的情景において呼び起される「永遠」の感覚こそ、連続性の観念に他ならない。

2.「ジャングルジム」表象に託されたものー失われた連続性への郷愁

連続性の概念とともに浅倉透について思考するとき、まず目を向けなければならないのは彼女の「ジャングルジム」体験である。

その時の彼女の内的経験について、僕たちは現在の浅倉の言葉から推察するほかないけれども、ジャングルジムの出来事は彼女にとって「言葉を交わさなくても分かり合う」体験であった。

「誰かがいて、一緒にのぼってくれてる 言葉は交わさないけどー」

この、言語以前の場所で交わされた、他者との融和の体験において、浅倉透は連続性を経験したのだと僕は考える。まだ幼く、不連続な個体として確立する以前の浅倉透に生じたこの連続性の経験は、鮮烈だったに違いない。逆に言えば、不連続な個体として確立していないがゆえに、連続性の経験が起こりえたのだともいえる。浅倉透はこのときの経験を反芻しながらプロデューサ―と関わっていくため、彼との精神的なつながりを一方的に感じてしまっていた。

「なんか、思い込んでた 気持ちが通じてるって…」

連続性は浅倉透にとって、「過去において経験されたもの」「今はもう失われたもの」として、失われた楽園、追放された故郷に等しい。バタイユの言葉を拝借するなら、失われた連続性へのノスタルジーこそ、浅倉透の存在を貫く宿命的な命題であり、主題的な根源であると僕は考える。連続性へのノスタルジーに惹かれる者にとって、言葉は意味をなさない。そのような、個体の確立を前提とするコミュニケーションは、根源的な融和の経験と比べれば、粗雑な比喩にすぎない。浅倉透の人格的希薄性や、言語コミュニケーションの不能性は、この連続性の経験に端を発する、と考えてもよいだろう。僕の解釈は、この「ジャングルジム体験」が浅倉透の魂の原風景になっていることを前提にするものだ。

そのような「連続性へのノスタルジー」の文脈において、浅倉透から匂う「どこかへいってしまいそうな儚さ」や、「いつも寄る辺なく何かを探し、彷徨っているような存在感」、ひとことでいうなら「さみしさ」に対して、概念的な強度を与えることができる。連続性へのノスタルジーは、失われた半身を欲するような、追放された領域への帰還を求めるような感情であるだろう。過去に生じた根源的な体験への感傷が、常に浅倉透の魂を惹きつけているのだ。

3.「息したいだけ」ー命の意味

連続性の概念を手掛かりにすると、GRAD編における「生命」のテーマがより明瞭に浮かび上がってくる。物語ラストにおける浅倉透のモノローグは、連続性の概念において理解を深めることができる。

「うれしい そうやって、命の一つになってー」「いつか誰かが、食べてくれたら」「そういうところにいたい」「泥の中に」

ここにおける「泥」は、コミュ内において独特の意味内容をもって表象されている。「泥」は、「水域と陸域が交わる」「多種多様な生命が死と生をつなぐ」場所であり、「そこに沈めば、きっと」「こなごなの命に戻る 名前もない、ただの命に」と表現される場である。浅倉透は、このような場所にいたいと考えているのである。

「泥」が連続性を象徴する場所であると、以上の引用から解釈することができる。生き物は生き物を食べて生きている。つまり、なにかが死ぬことによってーある個体の不連続性が解体され、別の個体の中へと回収されていくことによってー別の何かが生きるのだ。そしてその連鎖は、無限とも言うべき循環によって成り立っている。その無限性への想像力において、個体はまさに、食べられることによって連続性の中へ自己を融和させているのだと言える。浅倉透は、自分のことを「誰かが食べてくれる」ことを望む。泥の中にうごめく「名前もない、こなごなの命」として、生命の無限の循環=連続性のなかへと自らを投げ込むことを求めている、と解釈することができる。

このような理解において、「息、したいだけ」という浅倉透の台詞は、決して「頑張る」「全力で生きる」というような精神論的な言葉に限定されるものでもなければ、単に個体の生存のみに関わる言葉でもないことがわかる。無論、「ミジンコの心臓」の鼓動に感激を覚えた浅倉にとって、「息をする」とは、生きていることそれそのものの源的な事実への驚愕と、その事実への回帰の意味合いをもっているし、そのようなレベルで「個体の生」を視野に含んでいる。

しかしながら浅倉透にとっての「息」は、浅倉透が潟を指して「息してるだけで命になる」と表現する意味合いにおいて解釈されるべきものだ。浅倉透にとって「息」は「命」と密接に関わりあっている。そして浅倉透にとって「命」とは、生命の有機的な無限の循環そのものであり、生と死とが交差する場であり、食う食われるの関係を持つものであり、連続性への視座を前提にするものである。「泥」の象徴性がその証左である。ゆえに浅倉透にとっての「息をしたい」という言葉は、「生きていることそれそのものの源的な事実」への回帰と共に、生命の多様な連関への想像力をもって思考されている。そのような生と死の交差点において浅倉透は「息をしたい」と言っていると考えるのなら、そのような態度はまさにバタイユの言う「死におけるまで生を称えること」に他ならない。

そして呼吸は、身体と外的環境との最も頻繁な、そして最も根源的な接触点であり、その意味で世界と自己との持続を常に証明する機能であるということもーゆえに呼吸は不連続な個体の囲いを絶えず侵犯しているのだということもー指摘しておくのがいいだろうか。「息」の素朴な意味内容も、そのような連続性とのつながりがある。

4.「ほんとの世界」への跳躍-禁止と侵犯


浅倉透に関して重要なエピソードである「0時0分00000秒」の跳躍、および「非日常」と浅倉透の関係について述べてみよう。

「何かが終わる時と 始まる時がまざる」「いつでもない時間」「どこにもつながってない道」「0時0分00000秒きっかりに飛んだら」「きっとすべては消えて」「ほんとの世界になる」

ここでは、不連続性と連続性の概念における個体の生と死の交差=融和的瞬間と類似した構図をもつ、「終わる時と始まる時が混ざる」という言葉が用いられている。その混交的瞬間のモチーフにおいて、この「ほんとの世界」は「泥の中」と強く関連していることが読み取れる。そのような「交じり合う場所」、ある時間的・身体的区切りが取り払われ、「すべてが消える」ような融合の瞬間ー連続性の体験ーという浅倉透の主題性が、ここにおいても見出せる。その世界こそが、浅倉透にとっての「ほんとの世界」なのである。

さらに、この跳躍が「女子高生は普段は出歩くことのできない真夜中」=非日常においてなされたことも重要である。浅倉透はこの非日常において「ほんとの世界」を幻視したのだ。日常生活からは逸脱した領域においてこそ浅倉透の精神世界が豊かになっていることは、「泳げばとうとし」のコミュからも読み取れる。ここで、そのような「非日常」的体験について、連続性の延長線上にあるバタイユの概念「禁止/侵犯」について簡単に述べておく。

日常生活は「禁止」の世界である。そこにおいては暴力や欲望は遠ざけられており、特に死は日常生活の中に入り込まないように徹底して排除されている。それがゆえに人々は秩序の中で安寧を享受する。そして普段抑圧されている欲望を解放し、そのような禁止が封じ込めた領域への「侵犯」を行うことによってーバタイユは主に祝祭や人身供犠を侵犯の行為としているー、人々は日常生活において見えることのできない死の領域と接触する。死と連続性とは類似している、と冒頭に述べていたけれども、侵犯によって引き起こされる死との接触は、疑似的に「神的な連続性」を人々に呼び起こす。無論個体そのもののが死ぬわけではなく、死への恐怖や畏怖の感情が、逆説的な魅惑として働くことで連続性の感覚を人々に与えるということだ。

つまり、禁止/侵犯の概念とは、生命のレベルにおいて語られていた不連続/連続の概念が、社会的・共同体的なレベルにおいて語りなおされたものなのである。ゆえに彼女の「非日常」へのまなざしは、それが禁止に支配された日常生活に対する侵犯の欲望であり、形を変えた連続性への憧憬として解釈することができるのである。

ここにおいて「連続性へのノスタルジー」から通じる、浅倉透の存在感解釈の補強を行うことができる。浅倉透が「死」の領域へのーそこはバタイユによって「聖なるものの」の領域として解釈されるー侵犯を求めていると考える限りにおいて、浅倉透の行方不明になってしまいそうな危うさは、「死」との象徴的関係において説明されうる。僕がここで想定する「死」は、生命運動におけるそれではなく、もっと透明な領域への、「神隠し」的な存在消失におけるそれである。「死」の領域に絶えず惹かれる浅倉透を「こちら側」に引き戻すことが浅倉透コミュの隠喩的主題である、と考えてみるのはさすがに穿ちすぎだろうけれども、このような想像を掻き立てる空気感が浅倉透を取り囲んでいる。

5.おわりに

主に「ジャングルジム」「生命」「ほんとの世界」の象徴性を、連続性の概念を用いて解釈してみたわけだけれども、この文章を書くことによって筆者は、連続性概念だけではとらえきれない浅倉透の存在の広さを再認識することになった。

この文章は決して精緻な読解とはいえない。本音を言うならこの文章は、読んでいた哲学書と大好きなキャラクターとの間に見出せた異常なシンクロニシティへの(あるいはその幻覚への)、筆舌に尽くしがたい驚愕と好奇心を何とか誰かに伝えたかったという、それだけのために書かれたようなものだ。

けれどもやはり、僕には浅倉透が、「太陽と溶け合った海」を、「永遠」を、求め、欲しているような気がしてならないのである。この思いが単なる狂人の夢であるかどうかは、みなさんのご判断にお任せしたい。

この文章がみなさんのなにかの役に立てば幸いです。






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