虚無についての注釈─スタヴローギンについて

ニコライ・フセーヴォロドヴィッチ・スタヴローギンは、ドストエフスキー文学における「悪の主人公」の系譜の臨界点としてーあるいは臨界点を踏み越えたものとしてー過剰なまでに象徴的な存在である。彼は一切を信じない。彼にはなにもない。その巨大な空洞に、その果てしなさに、人々は憑かれたように魅了される。あるものは崇拝し、あるものは屈服し、あるものは憎悪する。けれど彼はそのすべてを冷ややかに眺めている。月が人を見下ろすかのように。その生涯はなにものも生み出さず、衰弱と消耗をしかその様式とせず、その魂の内奥には虚空があるばかりだった。

憤怒とか羞恥とかいうものは決して私の内部に存在しえない。したがって、絶望というのもあり得ない。
彼の生活は始めから終わりまで虚偽であった。虚偽の悟性、虚偽の情熱、そして、その凶暴性にもかかわらずー虚偽の意志!

彼に与えられたものは、人間が到達しうる極点であり、その力の過剰さ故に、彼は自分を滅ぼさざるを得なかったのだ、と言いうる。スタヴローギンという裏返しのメシアの鮮烈な暗闇は、確かに人々を救いうるだけの圧倒的な力を持っていた。マリイ、シャートフ、ピョートル、彼らのスタヴローギン崇拝と、「イワン皇子」の象徴性、そして彼に与えられた「十字架」の名前は、彼が救い主としてありうるだけの素質を持っていたことを証明している。しかしながらスタヴローギンから流れ出たのは、ただ青ざめた力のみであり、それがもたらしたのは、無目的で破壊的な、暗鬱とした終末のみだった。彼は始めから死人も同然だった。彼は亡霊だった。

私は慄然として恐れたのです、無為のためにわざわざ汚らわしい所業に浪費された偉大な力を。

彼はたぐいまれなる強靭な理性の持ち主だった。彼に備わった、絶えず自己を自己の思うがままに支配する能力と、暴力的で破壊的な欲動、これらが彼を犯罪的な傾向へ、彼の人生における第一の時期へとーすなわち「野獣」と評されるような放蕩へとー向かわせた。

この時期においてスタヴローギンは、未だ自己自身を了解することがなかった。彼は自身の力の宛先を求め、彷徨うかのように、「屑の屑」と呼ばれるような、人間社会の暗鬱とした場所へ、その薄暗い<地下>的な場所へと降りていった。それは自己の限界を探るような試みだった。彼が自身の魂の形を知るために、天賦の力を最大限発揮したのがこの時期だった。それは表面的には、触れる何もかもをなぎ倒していくような、凄惨な嵐を思わせただろう。彼のうちに充溢する力は、どこまでも、延々と拡大するかのような、果てのないものだ。「野獣のような放蕩」は、その象徴的な表れであるとともに、決してそれ以上ではない。なぜならばスタヴローギンは、自らの力を使用して、快楽を極めつくしても、絶対に満足というものを覚えないからだ。より率直に言うのであれば、彼には人間的な喜びが、あらゆる点からして欠落している。彼は人生に対して無能なのである。

私はそのころ、無関心の病が原因で、自殺をしたいと考えていた。
彼の魂内部には、陽光に似た神性のいとなみも、また、人間の生活内容を穏和ならしめ、人間感情を豊富な色彩をもって飾る精神と愛情の光明も存せぬのであって、その両眼が光と影によって彩られることは、かつてないのである。

彼は自己の全てを統御することができた。彼の憎悪は「冷ややかで理知的」、「したがってこの世で最も忌まわしく恐ろしい」憎悪だった。彼は過剰な情欲を宿しながら、「その気になれば僧侶として一生過ごすことができる」と考えていた。スタヴローギンの理性は全能と言うに値するだろう。彼は完璧に、自己を支配下に置いているのである。しかしそれゆえにあらゆる人間的感情は、彼にとって相対化可能なものであり、ゆえに価値をもたないものだった。彼は感情を生きない。彼は、感情を選択するのである。

「スタヴローギンは、たとえ信仰を持ってても、自分が信仰を持っていることを信じないし、またかりに信仰を持ってなかったら、その信仰を持ってないことを信じない男だ」、とキリーロフが評し、スタヴローギンが手紙において「私の内部から流れ出たものは、なんらのおおらかさも、なんらの力ももたないたんなる否定のみでしかなかったのだ。否定すら流れ出なかったと言えよう」と書いた理由もここにある。あまりにも怜悧な理性と、意思の力によって、自己の感情を支配し、眺め、懐疑することのできるスタヴローギンは、ついぞ身体的な感情の直流も、猥雑な異議を挟まない根源的な体験からも疎外されていた。肯定も、否定も、そのどちらにも辿り着くことのない永遠の無限循環。その無力な運動は空疎でしかない。

彼は自己という桎梏から出ることができない。「決して判断力というものを失わない」彼は、常にその意志力を行使するか否かの判断を迫られている。選択が可能であることそれ自体が彼の首を絞めつけるのだ。全能であるがゆえに不能ーこの逆説にこそ、スタヴローギンの受難の全重量がある。彼は自己の限界を探り、とうとう自分には限界がないことを知ったのだ。

「君は何かその、淫蕩な獣のような行為も、なにかこう非常に立派な働き、つまり人類のために生命を犠牲にするといったような行為も、美の見地からみると、ほとんど差別を認めがたいと断言したという話だが、それはまったくほんとうですか?この両極において美の合致、快楽の均等を発見したというのは、事実ですか?」

スタヴローギンは人間の領域を「踏み越え」た。彼の世界では、史上最悪の低劣さと、人類史に残る大偉業とが、等価なのである。己の意志以外のなにものにも縛られない彼にとって、善と悪との差異はないに等しい。理性という裁定者によってその両者の天秤は釣り合う。しかしその重さはスタヴローギンにとって快楽の重さでしかない。理性の怜悧な視線は、それを極限まで追求すれば、この世界から一切の色彩を奪ってしまう。自由が虚無を導き、理性の最大値が深淵な孤独へ転倒する、この人間存在の悲劇的逆説。それこそスタヴローギンの受難に現れる、悪魔の啓示である。

マトリョーシャ凌辱こそ、彼に悪魔の啓示を告げる事件だった。子供は、ドストエフスキーの文学世界における倫理的極限値のシンボルである。彼らの無垢性、無罪性は、キリストに例えられるほどに神聖視されている。それゆえイワンは、その無罪性に焦点を当てることで、「子供の一滴の涙」によって世界そのものを否定する論証を組み立てた。すなわち、子供が汚され、貶められるという事態は、この世界の根源的な不条理性、その「悪」の証左である。スタヴローギンはマトリョーシャを自殺に追いやることで、この世界における倫理の究極を殺してみせたのだ。人間の傲慢な意志の行使による、無限の自由の獲得、神の殺害とその地位の簒奪ーマトリョーシャの死はスタヴローギンを無限にした。ただしその無限は、死のように底なしだった。

彼の理性はあらゆる限界を超え、虚無に達している。彼の情熱は無限の過剰さを経験し、虚空を切りひらく。

ここにおいて「自分は善悪の区別を知りもしなければ感じもしない」、「ただ偏見あるのみ」であり、さらには「自分はあらゆる偏見から自由になることができるが、しかしこの自由を獲得したら破滅」だと、彼は「生まれて初めて厳粛に自己定義をした」。だがこの自己定義に至ったことで彼はより深刻に生きることから幽離しはじめる。

しかし、なによりいやなのは、頭がぼうっとするほど、生活にあきあきしたことである。

もはやどのような束縛からも解放されているスタヴローギンにとって、あらゆる出来事が平坦で、味わいのない、まるで無意味なものとして経験されたことは、想像に難くない。彼はほとんど、世界との関係を断ち切りつつあった。すべてが彼の手から零れ落ち、一切が彼を素通りしていく。彼の心を震わせ、その魂を人間的な感情で満たすことは、この世に存在するどのような事象でも不可能だったのだ。彼が真に欲し、見つめていたのは、到底ありえない不可能な景色だったのだから。

これは人類のすばらしい夢であり、偉大な迷いである!黄金時代、ーこれこそかつてこの地上に存在した空想の中で、最も荒唐無稽なものであるけれど、全人類はそのために生涯、全精力を捧げつくし、そのためにすべてを犠牲にした。そのために予言者も十字架の上で死んだり、殺されたりした。

「黄金時代の夢」ーそのユートピア的な絶対普遍の観念そのものを夢の中で体験した時、スタヴローギンは「文字通りに泣きぬれ」、「かつて知らぬ幸福感が痛いほど心臓に染み込ん」だと語る。この途方もない、美やイデアとしかいいようのない観念によって、スタヴローギンは初めてなにかを「体験」する。あるいはこう言うことも可能だろう。彼がその魂を震わせることができるのは、この絶対的幸福による救済のビジョンに対してのみであり、スタヴローギンはこのビジョン以外のいかなるものに対しても、あの冷ややかな相貌で眺め、受け入れることを拒否するのだと。

スタヴローギンの憂愁が、決して不感症から発生するものではなく、むしろ詩的ともいえる感応性によるものであるということは、随所で示されている。

ステパン氏は、少年の心の深い深い奥底に潜んでいる琴線に触れて、まだ漠としたものではあるけれど、かの神聖な永遠の憂悶の最初の感覚を、呼び覚ましたのである。

少年ニコライの「深い深い奥底に潜んでいる琴線」は、『悪霊』における美の担い手ステパン氏によって触発された、「黄金時代の夢」のような理想的イデアのビジョンに対して、なんとも捉えがたい感傷を抱いたに違いない。その、究極的なるものへの感傷こそが、スタヴローギンの魂の深奥において燻っていたからこそ、彼は「黄金時代の夢」に泣きぬれる。「神聖な永遠の憂悶」は、その裏返しであり、現実との接触面において究極的なるものへの感傷が反転した姿である。その感傷は現実において絶えず裏切られ、損なわれるものであるし、その感傷に比べれば、現実はゼロに等しい。だからこそ「選ばれたる霊魂の所有者は、ひとたびこの永遠の憂悶を味わい知ると、もはやその後決して安価な満足に換えることを欲しなくなる」のだ。ゼロをゼロでなくする欺瞞を受けいれるより、彼らはゼロをとるのである。ピョートルが「きみには純真なところ、ナイーブなところまでありますね」と言ったのは正鵠を射ている。彼らの妥協のなさにこそ彼らの純真さがあり、彼らのイデアへの感傷にこそ彼らのナイーブな性格がある。決してこの世に存在しない、見つかるはずのない、イデア的な観念への感傷的ないじらしい憧憬ーここに、スタヴローギンという虚無の暗闇に差し込んでいる、一条の淡く儚い光がある。

だが彼の「黄金時代の夢」は無残にも崩壊する。突如スタヴローギンを襲う蜘蛛のイメージには、ドストエフスキーの仮借なき残酷な筆致がこれ以上なくあらわれている。スタヴローギンに訪れた浄化の体験を、作家は決して許さない。スタヴローギンはマトリョーシャに対して犯した罪悪によって、黄金時代の夢から拒絶される。マトリョーシャの亡霊が彼に取り憑き、その精神の全てを苦悩によって蝕まれていく。スタヴローギンは以降、贖いと自己救済に己の全能力をつぎ込んでいく。

聞いてください、チホン神父。ぼくは自分で自分を許したい、これが僕の最大の目的、目的のすべてなのです!

スタヴローギンはその強靭な、自己完結した意志、その無限の自由を可能にする力と、罪の赦しの希求との間で引き裂かれざるを得なかった。彼はその理性の力で、マトリョーシャの亡霊も、罪の意識も、捨て去ることができた。しかし、それをしようとしなかった。ここに極限の葛藤がある。罪の意識に身をゆだねることができればどれほど楽だったことか。彼を閉じ込める意志の桎梏は、懺悔と悔恨を、至上の偉業に変える。罪の意識から自由になれる、という可能性が、浄化への道を絶えず閉ざすのである。彼が救済に至るために辿らねばならない巡礼は、その一歩一歩が自己を焼き尽くすことを要求する。

頬打ちと決闘の場面における彼の行動は、彼がその重荷を担い、自己を救わんと絶望的な奮闘を重ねる彼の試みのひとつひとつだった。他人を許し、命を尊ぶかのような彼の行為は、彼がその意志を自己救済のために行使した結果の、苦行的行為である。彼は自己の意志と罪の意識との相克に引き裂かれながら、「重荷」を引き受けることで自分で自分を赦すことを考えた。

僕はあなたが自分で重荷を求めているものと思っていました

彼は背負うべき十字架を、その所在を探していた。「無際限の苦しみを求めているのです。自分から求めているのです」。その彷徨には、「これ以上にキリスト教思想を体現した思想はない」と呼びうるほどの、切実な悔悟の欲求と、自己救済の悲痛な夢想が体現されている。

その到達点ともいうべき事業がかの「告白」であるけれども、彼はその十字架を背負うことができずに、逃亡するかのようにリーザとの逢瀬に一縷の望みをかける。しかしそれも不毛に終わるしかなかった。彼は、不毛に終わると予感し、またそれを「知って」さえいながら、リーザに自己救済の希望を賭けた。そこに「どうにもならない誠実さの値」が存在するが、彼の誠実さは、あくまでもエゴイスティックな領域を出なかった。けしてリーザそのものを顧みることなく、自己本位に「僕を罰してくれ」と叫ぶ、滑稽なほどに虚しい男の姿がここにある。彼は決して自己から出ることができない。

試みの全てが失敗に終わったスタヴローギンに残されていたものは、空洞に吸い込まれるかのような死しかなかった。彼の自殺は、自分で自分を罰するような殊勝なものでもなければ、苦しみからのがれるための最後の手段でもなかった。そのような自殺は、「無限に続く欺瞞の列の、最後の欺瞞」でしかない。彼は既に終わっていたのだ。彼はただ、その魂の空洞がもたらす必然的な帰結として、自由落下のように死に向かった。それすらも虚偽であり欺瞞であり、ニコライ・スタヴローギンの生は、虚無についての哀れな注釈でしかなかったと、言うこともできるだろうが。十字架を求め彷徨い続けた虚無の幽霊は、成仏することなくただひっそりと消えたのだ。






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