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P・オースター『ガラスの街』再読

物語は探偵小説を装ったメタ物語小説であるといえる。何重もの分身関係と入れ子構造、そして幻のように消え去るストーリーラインによって、作者は小説というフィクションそれ自体の本質的な空洞性を暴き出す。

「作者と探偵は入れ替え可能である」。探偵は偶然の出来事の羅列から、ある必然性=ストーリーを抽出する。しかしその整合性はあくまでも、作者によって予定されているものである。探偵は言うなれば作者と読者の仲介者だ。その使命は作者と同じく、ある物語を読者に届けることである。

小説はその表面的な体裁をなぞるように、いくつかの事実の間に符号を与える。そこには何か明かされるべき謎が含まれているかのように見える。その謎は、探偵及び読者の「意味を求める欲望」を快く満たしていく。必然性の道筋が幻視されるのだ。

ストーリーを欲望するという意味において、作者と探偵と読者の間には共犯関係が存在する。しかしこの小説は、その共犯関係を拒絶するように、ありえたはずの物語性を全て破棄してしまう。まるで全てが作り話であったかのように。

追うべき筋書きを失った探偵は、その本質的な空無に立返らざるをえない。ストーリーのないところに探偵はいない。使命なき探偵はもはや不要であり、その存在を維持することができない。小説の末尾、探偵は文字通り跡形もなく消え去る。物語が終わればその登場人物も死ぬのだ。

オースターは、探偵小説からストーリーを奪うことで、探偵の存在を消失させた。読者はその消失を通じて、小説それ自体の虚構性を目撃することになる。物語あるいは小説とは、空洞を内包した虚ろな殻だ。その殻を眺めることが空虚でないのは何故か。オースターは描く。「人が本に求めるのはそれに尽きます─愉しませてくれること」。

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