あじさいと空き瓶の間で

国道沿いに一本だけあるあじさいのことを母が言っていて、次の日に見てみるとたしかに一本だけ唐突にある。青い花が何個か咲いている。種がどこからか不時着したのだろうか。ツツジの葉が繁る中であじさいは浮いていた。

ドトールの一人席が連なる長テーブルの一席に着座した。隣の席の領土となるテーブルに大きな葉っぱが一枚ある。誰かが置いたか、とんできたのか、いやそれは考えにくいからやっぱり置いていったのだろうか。大きな茶色がかった葉っぱが一枚。空席を消毒してまわる店員もなぜかその葉っぱを片付けない。気づいていないのか。あんなに大きいのに。

電車で座っていた。通路を挟んで正面の席から一つずれた席に女性が座っていた。ウトウトして目を閉じて、なんとなく目を開けたらその女性が正面の席に来ていた。女性が一つ席を移動したのだ。さっきまで女性が座っていた席の隣の席に栄養ドリンクの空き瓶が置いてある。左からABCと席が並んでいて、俺の正面の席がCだとしたら、さっきまで女性が座っていたのがB、空き瓶がある席がA。

女性は、初めはBに座ったが、じきに空き瓶の存在が気になって席を一つ動いたようだ。正面のシートを見ると、その瓶は結構目立つ。最初に女性が座った時にも気づけたはずだが、俺も女性も気づかなかった。のだろうか。というか、いつからあった?
目を閉じて、目を開けたら突然それは現れた。かのように瓶はあった。そもそも、女性は本当にその空き瓶が気になって席を移動したのだろうか。瓶じゃなくて缶だったかもしれない。

国道沿いのあじさいとドトールの葉っぱと電車の空き瓶。その場に馴染まない不条理な存在。経緯が、文脈が、歴史がわからない存在。

場違いな場所にいることが大事だということをたまに考える。あるいは、キャリアが活きるところにいるとキャリアが活きない。俺はイベントハウスで働いているが、研究者見習いをやっている人間が本来くる場所じゃないし、キャリアを活かすなら教育系の仕事が順当だ。しかし、その「浮いた」経歴が、学術系のイベントについて相談されるなど、オリジナルなポジションをもたらしている。自分の職能が一見「浮く」場所にこそ、実は自分の職能を活かせる可能性がある。「浮き」をもたらしている自分の属性が、反転して自分のユニークネスになる。そういうことを考える。

あじさいの群れの中で咲くあじさいは埋もれるが、ツツジばかりの街路で咲くあじさいは目を引く。

ただそれは、電車の空き瓶のような、遠ざけられ、ただの「ゴミ」として浮いた存在であることと紙一重だ。「ゴミ」と「ユニーク」の境界を足で探りながら、独自の仕事をする。

ただ浮くのでもなく、ただ馴染むのでもなく。

「浮いた存在として馴染む」という両義性をいかに獲得するか。それこそ真剣に考えるべき「キャリアプラン」なのだろうと思う。

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