「オートファジー」を書くときに考えたこと
これからの創作の布石とするため、習作を書くときに何をどのように意図していたかをできる限り記録しておこうと思う。ということで、まずは1作目の「オートファジー」について。
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まず、「告白」か「運命」というタイトルで何かを書けという課題が出たときに、「告白」の方が書きにくそうだなと思い、それならば修行のためにそれを書こうと、「告白」を選んだ。
それで、何を書こうかと考えていたときに、頭の中にずっと引っかかっていたことが思い出された。それは、親戚の集まりで母が言った一言である。
「2時間、あ、1時間45分」
母は、その場所に着くのにかかった時間を親戚に説明していて、咄嗟に「2時間」と言った後に「1時間45分」と訂正したのだ。どう考えてもどっちでもいい。
俺は、母がなんでわざわざそんな訂正をするのか理解に苦しみ、その違和感が頭にこびりついた。案の定、その訂正を受けた親戚のリアクションは芳しくなかった。
あのときの母のどうでもいい訂正を「告白」としたときに、その後の文章はどのように書けるだろうかと思い立ち、それを書いてみることにした。それが冒頭2段落目までの書き出しになっている。
「私」がなんとなく女性っぽくなっているとしたら、あのときの母が念頭にあったのと、後述する村田沙耶香作品が意識にあったからだと思う。ただ、本作の語りを母が行なっていると想定したのではない。
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この3段落目以降、「私」の弁明は一気に抽象的になる。おそらく、時間を15分サバ読んだという瑣末な告白を「告白」として成立させるためには、少なくともそれを「告白」する「私」にとっては、それが「告白」に値する切実さを持っていないといけないという考えが筆者の無意識にあった。その「切実さ」を調達するために、「私」の「時間」に対する大げさともとれる世界観が記述されることになった。
この箇所を書くときに考えていたのは、「なんとなくそれっぽいことを言っているだけ」になってはダメだ、ということだった。この段落だけを抜き出したとしても、それ自体として意味のあることを言っているような真実性を宿したものを書かないと、文章全体の説得力がなくなるという直感があった。だから、ここは「神経質な人が変に壮大なことを言っている」のではなく、ちゃんとそれとして成り立つ世界観を語ることを意識した。
念頭にあったのはベルクソンである。固有の時間経験を人間的な生の本質として論じた時間論の巨匠だ。ベルクソンの哲学を忠実に反映した記述ではもちろんないが、時間経験を生の中心として重んじる「私」の世界観にはベルクソンに通じるものがあると思う。
同時に意識していたのは、直前に読んだ、村田沙耶香「無害ないきもの」(文學界1月号)である。この短編では、人間は絶滅すべきであるという思想をまっすぐに信仰する人物のそのまっすぐな思いがまっすぐに記述されている。村田作品に度々登場する「まっすぐな透明感と不気味さ」を持つ人物のある種の滑稽さがすごく好きで、それを自分なりにトレースしてみたいと思った。マーサ・ナカムラの作品にもこういうまっすぐな滑稽さがあり、それも念頭にあった。だからこの「オートファジー」では、そういう「まっすぐな語り手」の不気味と滑稽を書くことを意識しており、この段落以降、それが色濃く出ていると思う。
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続く4、5段落目では、とにかく論理を回転させることを意識した。「私」の意識をメタにメタにと回転させ、その神経質が滑稽になればいいと思って書いた。基本的にこの文章はナンセンスな笑いの感覚がベースにある。ずっと何言ってんだこいつは、という笑いになればいいと思って書いた。
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そして、6段落目のオートファジーのくだりである。実はこれを書いたのが、仕事でたまたまオートファジーに関する文献を読んだ直後で、それでなんとなくこの段落を書いたのだった。ただ、神経質が自己目的的に回転する「私」は、転じてこういう突拍子もないことを言いうるのではないかという感覚もあった。「私」のイメージとして、そこまで無理がないと個人的には感じている。関係のない話すんなよ、何言ってんの、という滑稽さがあればいいというのをここでも意図していた。
ただ結果的には、「自食」とも言われるオートファジーの自己循環性と、「私」が自分の世界観だけを餌にしてどんどん論理を展開していく様は重なっているように思う。だからこの文章に「告白」以外のタイトルをつけるなら「オートファジー」以外にないと思う。この文章は「私」によるオートファジーの一部始終である。
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最後の段落で、明日また「ゆうちゃん」の家に行くと、所要時間を告げて終わるという締め方は最初からイメージしていた。時間の話で終わることで、冒頭の謝罪との円環的な構造を作りたかった。問題はその時間をどうするかだったが、最初は「2時間10分」と書いていて、友人に見せたときに違和感を指摘され、たしかにテキトーだとしても変な数字かなと思い、一応言及のある「1時間50分」ということで落ち着かせた。ここに特段の意図は込めていない。
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