見出し画像

3分で読める掌編|きみはわたしのささやかな英雄、あなたは僕の偉大なヒーロー

 わたしはずっとひとりでもいいと思っていたんだ。
 きみと出会う前までは──。

 鼻先をくすぐる草と土の匂い。それに、足のうらに感じるアスファルトの感触も、かしましい女子学生のおしゃべり声も、コンビニの駐車場のランチだって案外と気に入っていた。わたしは要領も器量もよかったから、その日暮らしに不便も孤独も感じたことなんてなかったんだ。
 でも、あの嵐の日、きみは私の前に現れた。

 雨に濡れたからだを湯で温めて、きみは寝床にと毛布を用意してくれた。
 それはキャラクターもののピンク色で、正直ファンシーすぎていただけないと思った。
 でも、いつしかそれがないと安心して眠れなくなった。

 きみは夏の暑い日はわたしのことを気遣って、エアコンを小さく点けたまま仕事に行くのに、夕方になると冷えすぎちゃいないかって心配して、いつも大急ぎで帰ってきた。わたしは悠々とすごしているっていうのに、きみは走ってくるものだから逆にいつも汗だくだったっけ。

 知っている? 一念発起して買ってくれた立派なタワーよりも、きみの膝のうえの方が好きだったことを。きみは目をきらきらさせて何度も「乗ってみなよ」って、ひざの上に寝転ぶ私を抱き上げたけれど、そのたびにすぐ降りてしまうからがっかりしていたよね。

 はじめて出会った日から幾度も季節が変わって、ある日きみと一緒に獣医から帰ってきてからわたしの飯は急に不味くなった。

 あんまり不味くて、食べられなくて……まったく食べなくなった私に、きみは言ったね。

 長く一緒に居るためだから、どうか食べて──と。

 舌の肥えた私には味気ないリョウホウショクはとても食べられたものじゃなかったけれど、それでも食べたんだ。
 だって、きみが懇願するようにそう言ったから。

 その甲斐は少しはあったのかな。
 わたしの忍耐は、きみとの時間をすこしは伸ばしたのかな。

 ああ、わたしはきみと出会ってほんとうに幸せだった。

 あの日、きみが現れてわたしの生はがらりと変わった。ひとりでもいいと思っていたはずだったのに、今はこんなにもきみと過ごした日々と、きみが愛おしい。

 きみはわたしの生を極彩色にしてくれた。

 だから泣かないでおくれ、私のささやかな英雄よ。どうか、そんなに泣かないで──

***

「むぎ……」

 せわしなく上下していた痩せた腹がゆっくりになっていく。お気に入りのピンクの毛布に包まれて僕のひざのうえで、愛猫が、旅立とうとしている。

 こんな日にかぎって、外は春にしては冷たすぎる雨が音もなく降りつづいていて、闇に沈む部屋をじんわりと侵食していく。晴れた日の昼のことなら、この胸を潰されるような行き場のない思いも、いくらか紛れたかもしれないのに。

 いや、違う。むぎの命のともしびはもっと前に消えるはずだったのに、週末の夜まで待ってくれたのだ。仕事に行っているあいだ、あなたがひとりで逝ってしまうことを僕は何よりも恐れていたから。

「むぎ、あなたはほんとうによく出来た猫だ」

 美しいグリーン・アイはいつも、まるで何もかもを見透かしているようだった。

 あの嵐のような日、どうしてあなたを家に連れ帰ったりしたのか、今も分からない。もう何度目かもわからない仕事を辞めた帰り道、自分のふがいなさと先の不安に押しつぶされそうで、ただ柔らかな毛とあたたかな体に救いを求めただけかもしれない。

 そう、僕はまったく身勝手で、臆病で卑屈で──それなのにプライドばかり高くて、ほんとうに駄目なやつなんだ。

 だけど──

 明日こそまた辞めようと思って仕事からコタコタになって帰っても、玄関先できっちり足を揃えて出迎えてくれるあなたの姿を見ると、またがんばらなきゃって思った。だって、あなたにひもじい思いをさせるわけにはいかないから。

 気位の高いあなたはひとりでだって生きて行けただろうし、もっと良い人に貰われることだってできたのに、それでも、僕に身を委ねてくれた。

 あなたは、僕の偉大なヒーローだ。
 情けない僕を親愛と信頼で包み、奮い立たせてくれた。

 柔らかい小麦色の毛をそっと撫でる。
 そうすると、まだ温かくて余計に泣けた。僕のヒーローはもうここには居ないのに。

 ヒーローを失った物語のモブはどうやって生きていくんだろう。
 いや、今はまだ何も考えられない。

 でも僕はきっと生きていく。だってそうしないとあなたに顔向けできないから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?