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ヘーゲル『精神現象学』試論


はじめに

 本稿では,G・W・F・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770–1831)*1の主著の一つである『精神現象学』(Phänomenologie des Geistes, 1807,以下『現象学』と略記)の読解を試みる.

『学問の体系』構想,副題としての『精神の現象論』

 『現象学』初版の表題紙の二ページ前には「1. 精神の現象論の学問 Wissenschaft der Phänomenologie des Geistes」の文字が掲げられている.そして標題紙には「学問の体系 System der Wissenschaft」が主題として掲げられ,その下に「第一部,精神現象論 Erster Theil, die Phänomenologie des Geistes」と書かれている.

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(G・W・F・ヘーゲル『学問の体系』第一部,精神の現象論,1807年)

いわゆる『精神現象学 Phänomenologie des Geistes』という現行のタイトルは,初版時点では『学問の体系』の第一部に位置付けられており,主題ではなかった.その第二部はしかし刊行されなかった.ヘーゲルの『学問の体系』構想は途中で放棄されてしまったのであろうか?*2
 結論から言えば,ヘーゲルは『学問の体系』構想そのものを捨てたわけではなかった.ヘーゲルはこの構想を深化させることで,その成果を『哲学的諸学問のエンツュクロペディー要綱』(Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse, 1817)として刊行している*3.『現象学』と同タイトルの章が,『エンツュクロペディー』「主観的精神」に収められている.但し,その叙述は『現象学』と比較して大幅に簡略化されている.

「序文」とは何か

 『現象学』には「序文 Vorrede」と「序論 Einleitung」がある.「序文」も「序論」も意味上はほとんど変わらない.「序文 Vorrede」とは,内容に入る前に「前もって語ること Vor-rede」である.これに対して「序論 Einleitung」とは,「ひとつの導入 Ein-leitung」すなわち本論への導入部分である.「序論 Einleitung」は本論と連続して接しているから,「序文 Vorrede」が「序論 Einleitung」よりも「前に Vor-」位置付けられているのは,当然と言えば当然かもしれない.
 「序文」や「序論」といったものは普通,手短に済まされるものだが,『現象学』の「序文」は非常に長い.しかも「序文」が「序論」よりも圧倒的に長いのである.その内容は考え抜かれていて,ヘーゲルは明らかに気合を入れて最初の「序文」を書いている.『現象学』の「序文」をしっかりと読みこなせるか否かが,『現象学』を概念把握するための,資金石である.

「哲学的な著作」における「序文」の意義

 『現象学』の「序文」は次の文章から始まる.

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著作といったものには,なんらかの説明が「序文」において習慣にしたがい先だって与えられているものである.それは,著者がその著作でくわだてた目的についてのものであるし,また著作の機縁や,対象をひとしくし,先行するほかの論考や,同時代のそれに対して,じぶんの著作が立っているものと念っている関係にかんしての説明であることもある.そうした説明は,哲学的な著作の場合にはよけいなものとなるばかりか,ことがらの本性からして不適切でさえあって,さらに目的に反するものであるかにも見える.

(Hegel1807: I,熊野訳(上)10頁)

ここでヘーゲルは,まず著作一般における「序文」のあり方を述べた上で,「哲学的な著作」における「序文」の意義について問い質している.つまり,通常の著作における「序文」と,「哲学的な著作」における「序文」とでは,「序文」の果たす役割や意義が異なっているものとして考察されているわけである.
 ヘーゲルによれば「序文」とは「著者がその著作でくわだてた目的についてのものであるし,また著作の機縁や,対象をひとしくし,先行するほかの論考や,同時代のそれに対して,じぶんの著作が立っているものと念っている関係にかんしての説明であることもある」.つまり「序文」とは,著者がどいういう目的で書いたのかをあらかじめ読者に伝えておく箇所であり,同類の著作と比べて本書がどいういう位置付けなのか,その背景や文脈を説明する箇所である.この点については特に異論はなかろう.
 問題は,「序文」が「哲学的な著作」においてはどうして不適切なものと見えてしまうのかということである.この点について考察するには,上の引用の続きを読む必要がある.
 続きを読む前に,ひとつ注意喚起しておかなければならないことがある.ヘーゲルの叙述においては,どこまでがヘーゲル自身の主張であり,どこまでが通俗的な観念をヘーゲルが描写したものであるかを見極める必要がある.例えば,「そうした説明は,哲学的な著作の場合にはよけいなものとなるばかりか,ことがらの本性からして不適切でさえあって,さらに目的に反するものであるかにも見える scheint」と述べた箇所は,ヘーゲル自身の主張というよりはむしろ通俗的な観念をヘーゲルが描写したものと考えられる.「見える」ものはいわば仮象*4に過ぎないのであって,それは真理ではない.もしここでヘーゲルが『哲学的な著作に「序文」は不適切だ』と主張しているというのであれば,それをわざわざ「序文」で述べている本書そのものが自己矛盾に陥ってしまうことになる.だからヘーゲルは『哲学的な著作に「序文」は不適切だ』と主張したいわけではないであろう,という推理がはたらく.

「仮象」としての「哲学」

 続けてヘーゲルは『なぜ「哲学的な著作」においては「序文」が不適切に見えるのか』その理由について述べている.

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というのも,なにをどのように,哲学をめぐって「序文」なるもののなかで語るのが適当であるとされようと——たとえば,傾向や立場,一般的な内容や帰結にかんする羅列的な論述であれ,あるいは真なるものをめぐってあれこれと述べたてられる主張や断言を繋ぎあわせることであったとしても——,そのようなものは,哲学的な真理が叙述されるべき様式や方式として,ふさわしいものではありえないからである.その理由はまた以下の点にある.哲学は本質的に普遍性という境位のうちで展開されるものであり,しかもその普遍性は特殊なものをうちにふくんでいる.そのかぎりで哲学にあっては,他のさまざまな学にもまして,目的や最終的な帰結のうちにこそ,ことがら自身が,しかもその完全な本質において表現されているものだ,という仮象が生まれやすい.この本質にくらべれば,実現の過程はほんらい非本質的なものである,とされるわけである.

(Hegel1807: I–II,熊野訳(上)10〜11頁)

ここでまず「哲学 Philosophie」はどのようなものとして認識されているだろうか.それは端的に言えば,「普遍性」こそが大事,実現に至る過程を軽視し「帰結」のみを重要視する「哲学」である.
 しかしながら,われわれが注意しなければならないのは,ここで述べられている「哲学」がヘーゲル的な意味での「哲学」ではないであろう,ということである.
 ここで述べられている「哲学」は,「仮象 Shein」としての「哲学」に過ぎない.『「哲学的な著作」に「序文」は不適切ではないか』という懸案は,この「仮象」としての「哲学」がまさに「帰結」だけを重要視して,真理の実現に至るその過程を軽視するがゆえに発生した問題なのである.

「哲学」と「解剖学」の違い

 さらにヘーゲルは「哲学」が他の分野とは異なる性質をもつ点について,「解剖学」を例にあげて説明する.

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これに対して言われなければならないことがある.たとえば解剖学とは,生命を欠いて現にある存在という側面から考察された,身体のさまざまな部分にかんする知識といったものである.そうした解剖学をめぐっては,それが「なんであるか」という一般的な観念を手にしたところで,ことがらそのもの,つまり解剖学という学の内容をそれだけでは我がものとしているわけではなく,それにくわえてさらに特殊なものを手にいれるべく努力しなければならないというはこびを,ひとが疑うこともない.——ちなみに解剖学などは知識の寄せあつめであって,学の名を与えられる権利をもたないけれども,そのようなものについては,〔「序文」にあって〕目的とか,それに類する一般的なことがらにかんしておしゃべりがなされるのが通例である.しかもそのおしゃべりは,羅列的で概念を欠いたしかたでなされるが,内容そのものである,この神経やこの筋肉などについて語られるのもまた,そのおなじ方式においてなのである.哲学の場合は,これに対して,そのようなやりかたが用いられれば不整合が生じるのであって,そのけっか,このような様式では真理が把握されえないことが,やはり哲学そのものによって指ししめされるはこびとなるはずである.

(Hegel1807: II–III,熊野訳(上)11頁)

ここで「解剖学 Anatomie」は「学の名を与えられる権利をもたない」と述べられている.これはつまり,「解剖学」はヘーゲルのいうの意味での「学 Wissenschaft」の名に値しないということである.
 では,ヘーゲルにとって「学」とは一体なんであろうか.「解剖学などは知識の寄せあつめ」であるとされている.それが「寄せあつめ」であるということは,裏を返せばそれは「体系的」ではないということである.
 だが,本書のメインタイトルはもともと「学の体系」であった.それゆえ,哲学的な著作である本書は,解剖学のように「羅列的で概念を欠いた」方法を採用しないし,そこで叙述されているものは単なる「知識の寄せあつめ」ではあり得ない,ということになる.
 しかも,ここで「解剖学」*5が例として取り上げられているのは,全く理由がないわけではない.「解剖学とは,生命を欠いて現にある存在という側面から考察された,身体のさまざまな部分にかんする知識といったものである」とヘーゲルはいう.ヘーゲルの「哲学」がめざすところの「学の体系」は生命ある身体を有機的に把握するものだと考えられる.それゆえ,身体から生命を欠いた状態で,しかも身体の全体を通してではなく,身体の局所的な部分からのみ得られた知識の羅列に過ぎない「解剖学」のあり方は,ヘーゲルのめざす「哲学」のあり方とはまさに対極に位置しているとも言えるのである*6.

「思いなし」が見出す矛盾

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 同様にまた,或る哲学的労作が,対象をおなじくするいくつかのべつの努力に対して立っていると信じられる関係を規定してみるとしよう.その場合でも種類をことにする関心が引きいれられて,真理を認識するさいに重要なことがらが冥がりに閉ざされてしまう.真なるものと偽なるものとの対立は固定されているとする思いなしがあるがゆえに,そうした思いなしによればまた,なんらかの現にある哲学的体系に対して賛成なのか,それと矛盾しているのか,〔その説明〕だけが期待されるのがつねとなる.こうして,そのような体系をめぐって説明をくわえようとしても,賛否のどちらかだけを見てとろうとするものなのである.そのような思いなしがあると,哲学的体系どうしの相違は,真理がしだいに発展してゆくすがたとして把握されずに,むしろそうした相違のなかにひたすら矛盾のみがみとめられることになる.

(Hegel1807: III,熊野訳(上)12頁)

以前のパラグラフでは,〈哲学的な学問というものは単なる知識の寄せ集めではない〉というヘーゲルの思想が示された.続いてここでは二項対立を固定的なものとみなす考え方——もっと言うと「Aは同時にAでありかつ非Aではあり得ない」という矛盾律——が批判されている.
 ここでとりわけ注目したいのが,「思いなし Meynung」という言葉である.山口誠一によれば,この「思いなし Meynung」という語で観念されているものは,ギリシア語の「ドクサ δόξα」であるという.

ここでは,このような関心を抱く当事者,結局は,真と偽の対立を固定する当事者を,「思いこみ」(Meinung)と呼んでいる.これは,いうまでもなくギリシア語のドクサのドイツ語である.しかるに,ドクサは,臆見,独断そして思いなしとも訳され,命題の形式をとる.したがって,真と偽との対立を固定するとは,真理を命題形式で,偽を排除して表現することである.

(山口誠一 2008a「『精神現象学』序説冒頭の解明」11頁)

 では,どうして「真なるものと偽なるものとの対立は固定されているとする思いなし」は,両者の相違のうちに矛盾ばかりをみとめるのであろうか.それは,いわば事物の変転を見逃しているからである.ヘーゲルが「真理がしだいに発展してゆくすがた」と述べているように,形態の流動的な変化の全体を〈真理〉として認めるような大局観こそが肝要なのである.

ヘーゲル哲学の「流動的な本性」

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つぼみは花弁がひらくと消えてゆく.そこでひとは,つぼみは花弁によって否定されると語ることもできるだろう.おなじように,果実をつうじて花弁は,植物のいつわりの現存在であると宣言される.だから,植物の真のありかたとして,果実が花弁にかわってあらわれるのだ.植物のこれらの形式は,たんにたがいに区別されるばかりではない.それらはまた,相互に両立できないものとして,排除しあっている.しかしこれらの形式には流動的な本性があることで,それらは同時に有機的な統一の契機となって,その統一のなかでくだんの諸形式は,たがいに抗争しあうことがない.そればかりか,一方は他方とおなじように必然的なものとなる.そこで,このようにどの形式もひとしく必然的であることこそが,はじめて全体の生命をかたちづくるのである.

(Hegel1807: III–IV,熊野訳(上)12〜13頁)

前回「真なるものと偽なるものとの対立は固定されているとする思いなし」によっては変化を捉えられないことを見てきたが,ここでヘーゲルはそのような「思いなし」を植物の形態発展の例によって打ち崩している.
 「つぼみは花弁がひらくと消えてゆく.そこでひとは,つぼみは花弁によって否定されると語ることもできるだろう.おなじように,果実をつうじて花弁は,植物のいつわりの現存在であると宣言される.だから,植物の真のありかたとして,果実が花弁にかわってあらわれるのだ」.植物のこのような形態発展は,ヘーゲルのいわゆる弁証法の例としてよく持ち出されており,高校の倫理の教材でも用いられることがある.ただし,ここでヘーゲル自身は「弁証法」とは述べておらず,これがただちに「弁証法」の例と言って差し支えないかどうか留保が必要である.
 植物において,つぼみの状態と花弁がひらいた状態そして果実の状態とは「相互に両立できないものとして,排除しあっている」.こうしたあり方は,形式論理学においては「Aは同時にAでありかつ非Aではあり得ない」ということで矛盾律と呼ばれる.それはたしかに矛盾として映るかもしれないが,そこで見逃されているのは「流動的な本性」である.それぞれの形式を「有機的な統一の契機」として取り扱うことは,まさにヘーゲル哲学の特徴を示している.

矛盾の把握の仕方

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いっぽう或る哲学的体系に対して矛盾していることがみとめられる場合,ひとつには,その矛盾そのものがこうしたしかたではふつう把握されない.もうひとつには,意識がその矛盾をとらえたとしても,当の意識はつうじょう,矛盾をその一面性から解放し,あるいは自由なものとして保持することを知らない.さらには,あらそい,反対しあっているかに見えるものが採っている形態のうちに,たがいに対して必然的な契機を認識するすべも知らないのである.

(Hegel1807: IV,熊野訳(上)13頁)

ここでヘーゲルは,通俗的な把握の仕方に対する批判を展開している.
 第一に「或る哲学的体系に対して矛盾していることがみとめられる場合,ひとつには,その矛盾そのものがこうしたしかたではふつう把握されない」.ここで「こうしたしかたでは auf diese Weise」と言われているのは,意識がただ矛盾の存在を認めるだけで,それを「全体の生命」の観点から体系的に捉えていないということであろう.
 第二に「意識がその矛盾をとらえたとしても,当の意識はつうじょう,矛盾をその一面性から解放し,あるいは自由なものとして保持することを知らない」.これも同様に,意識が矛盾の一面性に固執することによって,つぼみが花開くようにして前の形態を否定していくことで変化していく「流動的な本性」を見落としているという批判である.
 第三に「あらそい,反対しあっているかに見えるものが採っている形態のうちに,たがいに対して必然的な契機を認識するすべも知らない」.これは要するに,反対しあっているものどもを「有機的な統一の契機」とみなすことによってそれら対立物のうちに必然的な連関があることを見落としているという批判であろう.
 裏を返せば,上述の批判のうちに,ヘーゲル自身による矛盾の把握の仕方と彼の哲学における体系への志向性が見えてくるはずである.

ヘーゲル独特の皮肉

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 右に挙げたような説明を要求することは,その要求を満足させることとならんで,本質的なことがらに従事していることと見なされやすいものである.なんらかの哲学的著作について,その内奥にあるものは,当の著作の目的と帰結を措いて,それ以上にいったいどこで表明されているというのか.さらには,そうした目的と帰結がはっきりと認識されるのは,なによりも,同時代人たちがそうはいってもおなじ領域で生みだしたものとの相違をつうじてのことではないのか.〔ひとはそう主張するわけである.〕とはいえ,このようなふるまいが,認識するにさいしてそのはじまり以上のものと見なされ,それがまた現実的な認識と見なされる,などというはこびとなったとしてみよう.その場合には,じっさいには手管に数えいれられるべきものが生まれているのであって,それによってことがらそのものが回避される.そのうえ,ことがらをめぐって真剣に努力しているかのような外観と,当の努力を現実には省略すること,この両者がむすびあわされているのである.

(Hegel1807: IV–V,熊野訳(上)13〜14頁)

この箇所はヘーゲル独特の皮肉が効いていて,一見すると肯定的な見解が示されているようにも見えるが,じっさいには否定的な見解が示されているのである.
 前のパラグラフの冒頭には,「或る哲学的労作が,対象をおなじくするいくつかのべつの努力に対して立っていると信じられる関係を規定してみるとしよう」と述べられていた.例えば,ヘーゲルの著作がフィヒテやシェリングといったドイツ古典哲学者の著作と比較検討され得るであろう.そういった同時代人の著作と比較することによってそれぞれの違いが分かるという主張が,ここでは通俗的な見解であるとされている.しかしながら,前パラグラフに見たように,そうした比較の仕方は,それぞれの立場を固定化し一面化することによる説明に過ぎなかったのである.「右に挙げたような説明を要求することは,その要求を満足させることとならんで,本質的なことがらに従事していることと見なされやすいものである」がしかし,実はそれはなんら本質的なことがらではないのである.

「生成」の始まりと終わりとしての「目的」と「成果」

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そもそも,ことがらはそれが目的とするところで汲みつくされるのではなく,ことがらが実現されることで汲みつくされる.成果もまた現実の全体というわけではなく,その生成とともに全体となる.目的とは単独では生命を欠いた普遍的なものにすぎない.それは,傾向がたんなる駆動であって,その現実性をいまだ欠落させているのと同様である.たほう剥きだしの成果とは,傾向を背後に置きざりにした屍なのだ.

(Hegel1807: V,熊野訳(上)14頁)

「目的 Zweck」と「成果 Resultat」はその「生成 Werden」という過程からすると始まりと終わりにそれぞれ位置している.ヘーゲルの現象学においては「目的」と「成果」が重視されるのではなく,その「生成」という過程も含めてこそが重要である.
 「目的」というゴールの設定は,それが実現されてはじめて現実的に意義あるものとなる.この「目的」を「成果」へと結びつけるのが「傾向 Tendenz」である.例えば,ひまわりの種は,花を咲かせて新たな種子を作ることをその「目的」とし,その「生成」の過程では,地面から養分を吸収し,光に向かって茎を伸ばしたりする「傾向」を持つ.時が経ち,咲いたひまわりの花と種子はその「成果」として現れるが,この「成果」だけに着目すると,それまでのひまわりの成長の過程が見えなくなってしまうのである.

相違とことがらの限界

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おなじく,相違とはむしろことがらの限界であって,相違が存在するところでは,ことがらはおわってしまっている.いいかえれば,相違とはことがらが「それではないもの」なのである.そのように,目的や成果に,同様にまた或るもの〔ひとつの哲学的体系〕とべつのものとの相違やそれらの評価にかかずらうとすれば,それは,だから,たぶん見かけよりもたやすい仕事なのだ.ことがらをとらえようとするかわりに,そうしたふるまいはつねにことがらを飛びこえてしまっているからである.つまり,ことがらのうちで足をとめて,そこに没頭するのではなく,そのような知識はいつでもなにかべつのものを追いもとめている.要するに,ことがらのもとにとどまって,これにみずからを捧げるというよりは,かえってじぶん自身のもとにありつづけようとするものなのである.

(Hegel1807: V,熊野訳(上)14頁)

「ことがら Sache」をそれに即して把握するためには,「ことがらのうちで足をとめて,そこに没頭すること in ihr zu verweilen und sich in ihr zu vergessen」が重要であり,そしてまた「ことがらのもとにとどまって,これにみずからを捧げること dass es bey der Sache ist und sich ihr hingibt」が何よりも重要である.
 これに対して,「相違」に着目するような把握の仕方は,「つねにことがらを飛びこえてしまっている immer über sie hinaus」のであって,つまり「ことがら」を見えなくし,むしろそこに見出すのは自分自身なのである.
 「相違 Verscheidenheit とはむしろことがらの限界であって,相違が存在するところでは,ことがらはおわってしまっている」.ことがらを何か別のものと区別して把握しようとすれば,そこで明らかとなるのはことがらと別のものとの間の境界線であり,そこが「ことがらの限界 Gränze」なのである.それはことがらそのものの内には立ち入っていないことを意味する.

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「もっとも困難な」こととしての「叙述してみせること」

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もっとも容易なのは,内実をそなえ,堅固なものを評価することだ.より困難なのはそれをとらえることであり,もっとも困難であるのは,そのふたつのことがらを統合することである.つまり,内実があり,堅固なものを叙述してみせることにほかならない.

(Hegel1807: V,熊野訳(上)14〜15頁)

ここでは「もっとも容易な」こと,「より困難な」こと,「もっとも困難な」ことの三段階に分けられている.上で述べられていることを,一旦,箇条書きにして整理してみる.

  • 「もっとも容易な」こと:「内実をそなえ,堅固なものを評価すること」

  • 「より困難な」こと:「それをとらえること」

  • 「もっとも困難な」こと:「そのふたつのことがらを統合すること」すなわち「内実があり,堅固なものを叙述してみせること」

ここで「ふたつのことがら beydes」とは,「内実と堅固さ Gehalt und Gediegenheit」*7のことではなく,「もっとも容易な」ことがらと「より困難な」ことがらの両者を指していると考えられる.これら二つの段階の統合として,「もっとも困難な」ことがらが示されている.
 ここでヘーゲルが「それを叙述してみせること seine Darstellung hervorzubringen」として述べている「それ seine」は,「内実があり,堅固なもの was Gehalt und Gediegenheit hat」なのだろうか.むしろ「もっとも容易な」ことがらと「より困難な」ことがらの「ふたつのことがらを統合すること was beydes vereinigt」を「叙述してみせること」が,「もっとも困難な」ことだとされているのではないか.
(つづく)

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